俳優・和田正人さんが語る箱根駅伝 日大時代に2度9区を疾走「月並みだけど青春でした」汗をかき、涙を流した日々
第100回大会を迎える箱根駅伝を前に、特別な思いを持つ著名人の方々にインタビューした。今回は俳優として活躍する和田正人さん。実は日大時代に箱根駅伝を2度走っている和田さん。卒業後は実業団でも競技を続け、チームの廃部をきっかけに俳優を目指したという。現役時代や選手へのメッセージを聞いた。 第100回箱根駅伝エントリー候補選手名鑑をチェック!
幼い頃からテレビで見ていた箱根駅伝
――和田さんが箱根駅伝を見始めたのはいつ頃ですか? 和田 正月になると親戚が集まって、おじいちゃんが見ていたのを、なんとなく見ていました。知ってはいましたが、小学生なんでそこまでおもしろいとは思っていなかったです。 やっぱり中学で陸上を少し始めてからですね。僕はソフトボール部に入っていて、結構、真剣にやっていました。掛け持ちで作られた駅伝に1年生の時から入っていたんです。 駅伝のほうでも県内で活躍するようになって、少しずつ興味を持った感じですね。当時は早稲田の渡辺康幸さんとか、山梨学院のオツオリ選手とか。神奈川大も強かったですよね、ただ、その時もあこがれの舞台というのは一ミリもなかったですね。こういう世界があるんだなって。だって、本当に高知の山間部で、全国大会という発想すらなかったです。 ――高校から本格的に陸上の道へ進まれたそうですね。 和田 高知工業の野中(三徳)先生が目をつけてくれて誘ってくれました。「高知農業を倒して全国高校駅伝に行くぞ。お前にかかっている」みたいな、熱いコト言われましたね。今でも飲みにいくくらい良くしてくださっています。そこで初めて全国高校駅伝に出たい、という目標が漠然とできました。 2年生の時に39年ぶりに都大路に出ました。でも、ボロボロで全然活躍できなかったです(1区36位)。全国ってこんなにすごいんだって。歯が立ちませんでした。今も残る1区のギタヒ(仙台育英高・宮城)の高校記録が出た時なんですよ。 ――3年の時にも出場(4区36位)されています。当時から大学でも競技を続けたいと考えていたのですか。 和田 そこまで考えていなかったです。僕は今でもそうなのですが、性格上、あまり先の目標を決めるより、目の前のことを一生懸命にやっていたら道が開けていくようなタイプ。全国高校駅伝に出ることだけを考えて練習していました。高校生ながら、親や先生から期待されているのはわかっていたので、行けるところまで行きたいな、とは思っていました。 当時、日大のコーチをされていた西(弘美)さんと野中先生は、日大時代のチームメイト。そこで、野中先生が「伸びるから見てやってくれ」と話してくれたみたいで、高知まで練習を見に来てくださいました。 全国高校駅伝でも活躍できず、インターハイにも行っていなかったので、「あ、大学に行けるんだ」と思いました。そこで初めて箱根駅伝を意識したんです。 ――日大に進学されて、チームの雰囲気と気持ちとしては? 和田 当時の日大は上位争いをしていました。全国から精鋭が集まってくるようなチームでしたね。入学した時の持ち記録も同期の中で一番遅かった。Aチームにもなかなか入れなかったですね。 でも、負けず嫌いなので、とにかく勝ちたい一心で、コツコツまじめに頑張っていたら、自然とタイムが上がっていきました。冬には自己記録が同期で一番になったんです。 チームとして練習していく中で、3大駅伝(出雲、全日本、箱根)が大きな目標で、その中でも箱根駅伝は一番大きいものなんだなって、だんだんと理解していきましたね。 ――絶対に箱根駅伝を走るんだ! みたいな感情ではなかったわけですね。 和田 小さい頃から見ていたらそうなると思いますが、僕は違いました。ただ、卒業する時に、地元の友達から「和田は箱根駅伝を目指して日大に行くんだよな。箱根駅伝頑張れよ」って言われるわけです。やっぱりみんなが知っている。じゃあ、箱根駅伝に出られるように頑張りたいなって。 ――1年生からエントリーに入られたんですよね。 和田 そうですね。箱根に出られるところまで来て、ようやく実感してきました。目の前に箱根駅伝が来たんですよね。そうしたら頑張り過ぎちゃった。12月の館山合宿でケガをしてしまいました。 3区を走る予定で下見にも行きました。それで出られなかったので、逃した獲物の大きさを実感しました。そこから、本格的に絶対に箱根駅伝に出たいっていう気持ちが湧き上がってきたんです。