ザックジャパン DF補強の切り札は攻撃DFの広島・塩谷司
サンフレッチェ広島のFW佐藤寿人は、初対面の時点で「この日」が訪れるのを確信していた。 2012年8月。J2の水戸ホーリーホックから完全移籍で加入したDF塩谷司が、初めて練習に合流したときに受けた衝撃をいまも鮮明に覚えている。 「日本代表に入れるポテンシャルを秘めているな、と思いましたからね」 3日に発表された日本代表候補メンバー23人の中に、王者サンフレッチェでレギュラーを不動のものとした25歳の塩谷が初めて名前を連ねた。2年前はJ2のピッチでプレーしていた男が、ブラジル行きのチャンスをつかむ。サッカー人生を左右した2度のターニングポイントを経て、シンデレラストーリーは新たな章へ舞台を移した。 1988年12月に徳島県で生まれた塩谷は、地元の強豪徳島商業から国士舘大学に進んだ。当時のポジションはボランチだったが、大学3年まではレギュラーポジションを獲得するには至らなかった。 4年生となった2010年。国士舘大OBの柱谷哲二がコーチに就任したことが、塩谷にとって最初の転機となる。日本代表の最終ラインを長く統率してきた柱谷コーチは、塩谷をセンターバックに転向させた。その意図を、こう明かしてくれたことがある。 「コンちゃんをもっとテクニックのある選手にしたイメージだったので」 コンちゃんとは、ザックジャパンで不動のセンターバックを務めてきた今野泰幸(ガンバ大阪)。コンサドーレ札幌の監督を務めた2002年に入団2年目だった今野を指導している柱谷は、年代別の代表経験もない無名の塩谷に「ポスト今野」の可能性を見出していた。 翌2011年にホーリーホックの監督に就任した柱谷に誘われる形で、塩谷は夢にも思わなかったプロ選手となる。開幕戦からセンターバックとしてレギュラーに抜擢されると、累積警告で出場停止となった3試合を除く35試合に先発。182cm、80kgの体に宿るポテンシャルを開花させていった。 センターバックとしての経験や心得をどんどん吸収し、愛弟子が急成長すていった日々を、柱谷は笑顔でこう振り返る。 「僕はメンタルを一番大事にしているので、プロとして成功するためには何が必要なのか、どういう考え方をすればいいのかを塩谷には伝えた。サッカーで飯を食っていくためには、ピッチ以外でも自分の体に気を使うなど、プロとして当たり前である自己管理ができるようになった。その上で、筋トレでふた回りくらい体を大きくさせた。サイズもコンちゃんよりあるし、フィジカルの強さは十分世界に通用する。1対1も強い。スピードもあるし、左右両足で正確なキックも蹴れる。加えて、ドリブルも上手いからね」