元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2~3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。
ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15~16歳の少年兵たちがいました。 私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。 (高越良一/ライター)