2025年大阪万博に「みゃくみゃく」と受け継がれる昭和の亡霊とは? 世界の万博跡地を歩いた古市憲寿が解説!
2025年に大阪で開催される万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」。 赤と青の配色が印象的な公式キャラクター、ミャクミャク(MYAKU-MYAKU)も、このコンセプトから生まれたものである。 開催地問題など様々な議論が巻き起こっているが、果たして二度目の大阪万博は成功するのだろうか? 数々の万博跡地を辿ってきた、古市憲寿と大阪万博について考えてみよう。 (※この記事は『昭和100年』から抜粋・編集したものです。) (※前回記事はこちらからご覧いただけます)
「ミスター万博」が望まなかった陸の孤島
万博が開催されるのは大阪市の最西端に位置する人工島・夢洲(ゆめしま)だ。 390ヘクタールの面積を持つ広大な埋立地で、1977(昭52)年から整備が開始された。1980年代には咲洲(さきしま)・舞洲(まいしま)と共に「テクノポート大阪」なる計画が発表され、技術開発や情報通信の拠点である新都心が作られるはずだった(注1)。 だがバブル崩壊によって、入居予定の企業が撤退した上、インターネットの普及によって「情報通信」計画自体が古臭くなってしまった。今さら巨大なパラボラアンテナとかいらないし。 1990年代に大阪市は起死回生を狙って、オリンピック誘致を本格化した。夢洲をメイン会場にして、数万人の居住を目指して選手村を整備する計画だった。人工島で開催される「初の海上五輪」を目指したというが、今では誰も思い出せないほど世論も盛り上がらなかった(注2)。 そんな夢洲に再び転機が訪れたのは2008年に橋下徹(はしもと とおる)(昭44)が大阪府知事に選ばれてからだ。当時の橋下には湾岸エリアを「関西州」の州都にしたいという構想があり、大阪ワールドトレードセンタービルディングへの府庁舎移転が計画された。さらに湾岸部への再開発においてカジノ構想を提案する。 講演会では「こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」というやんちゃな発言があったという(注3)。こうして大阪は本格的にカジノを含めたIR(統合型リゾート)誘致に乗り出すことになる。 (注1) 松本創編『大阪・関西万博「失敗」の本質』ちくま新書、2024年。万博開催前の出版にもかかわらず「失敗」と言い切っている。 (注2) 大阪が目指していたのは2008年夏季大会。2001年のIOC総会では、102票のうちわずか6票しか獲得できずに、立候補5都市中、最下位で落選した。結果的に北京で開催された。 (注3) 「「大阪 風俗街引き受けます」橋下知事'関西活性化'で発言」『読売新聞』2009年10月30日大阪朝刊。 一方の万博構想に関しては、「ミスター万博」である堺屋太一の存在が大きかった。1970年の大阪万博の立役者だった堺屋が再び暗躍したようなのだ。2013年に大阪市中央区北浜の寿司屋で橋下徹、松井一郎(まつい いちろう)(昭39)に対して「もう一回、万博やろうよ」と提案したという(注4)。 堺屋に乗せられたのか、2014年には松井が大阪府知事として正式に万博招致を表明する。実は「ミスター万博」御大は、自らの栄光の舞台である1970年万博と同じ吹田市での開催を望んでいたという。万博跡地は万博記念公園として整備されていたが、公園が十分に活用されず、利用者の少ないことに不満を抱いていたのだ。 だがカジノとの相乗効果を狙い、夢洲での開催が既定路線になっていく。2018年には博覧会国際事務局総会で、正式に万博開催が決まった。 もしも「ミスター万博」に従って、万博記念公園での開催にしていれば、世論の反応も違ったかも知れない。当時の万博を再現した一画でもあれば、高齢者はもちろん、レトロフューチャー好きな若い世代にも人気を博しただろう。