防災ストーリーが「日本遺産」になった唯一のまち、和歌山「広川町」で自然との共存を学ぶ
海や川、山に恵まれ、温暖な気候が魅力の和歌山県。なかでも甘くみずみずしい有田みかんで有名な有田・日高エリアは、豊かな自然とおいしいものがいっぱいの穴場観光スポットです。このエリアに位置する広川町(ひろがわちょう)は、日本ではじめて防災に関するストーリーが日本遺産に登録された「防災の町」。海や山と共存してきた歴史と叡智を訪ねて、広川町を訪ねました。
江戸時代、津波に襲われたまちは、どうやって復興したのか?
美しい海と、みかんが実る山々に恵まれた広川町。和歌山県の中北部に位置し、まちの真ん中を紀伊水道に注ぐ広川が流れ、町名の由来となっている。広いビーチやホタルが乱舞することでも有名で、夏には多くの人が訪れる人気スポットだ。歴史的建造物がそこここに残り、散策にもってこい。そんな風光明媚でゆったりとした時間が流れる広川町には、津波による被害と復興の歴史が、いまも語り継がれている。
1854年(安政元年)11月5日の夜、当時の広村は、安政南海地震とそれによる大津波に見舞われた。第一波が襲ったあと、海水が沖に引いていくのを村の高台から見た地元の豪農・濱口悟陵(はまぐちごりょう)は、暗闇のなか津波から逃げ遅れた人びとの道しるべとなるように、刈り取ったばかりの田んぼの稲束「稲むら」に次々に火をつけたという。村民たちはその灯りを目指し高台に避難。ほどなく村を呑み込んだ眼下の大津波第二波を、人びとは呆然と眺めたそうだ。
悟陵は豪農であるばかりか、国防のために自警団をつくったり、火災で焼失した江戸の種痘所(しゅとうしょ=後の東大医学部)に再建費用を寄付したりと、広く社会のために力を尽くした人物。大津波で何もかも失い意気消沈する村人たちに、地域を守るための堤防を築こうと提案する。そして私財をなげうって、村民たちに建設賃金を支払ったという。「稲むらの火」によって九死に一生を得た人びとは懸命に働き、津波から3年10ヵ月後に、立派な「広村堤防」が完成したのだ。
安政の津波から約50年がたった明治36年(1903年)、犠牲者の慰霊と防災意識の継承を目的にした「津浪祭」が開催された。それから120年以上たち、いまでも地域の小中学生が参加して11月5日に祭りが行われている。 稲むらの火や広村堤防、津浪祭など防災にまつわる広川町のストーリーは、2018月5月に「『百世の安堵(あんど)』~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~」として「日本遺産」に認定された。百世の安堵とは、「築堤の工を起こして住民百世の安堵を守る」という悟陵の言葉からつけられたもの。津波から稲むらの火、築堤までの一連のエピソードは、明治の文豪・小泉八雲の『生ける神(A Living God)』によって、広く世界に知られることになった。