推し活盛況の背景に承認欲求疲れ 夢を託すことでも心は満たされる
「自己対象が不足している人、あるいはナルシシズムを満たすための人や物・対象が足りていない人は、推しの存在でそれらが補われ、イライラや不全感を抱えていた心が満たされていく。ナルシシズムの満たし方には他人から褒めてもらうという点ばかりが知られていますが、実は誰かをリスペクトする、憧れるということもナルシシズムを満たすもう一つの経路だとコフートは言っています」(熊代氏) これまでは「自分が褒めてもらいたい」というナルシシズムの満たし方ばかりに注目が集まり、誰かをリスペクトするという経路のナルシシズムが軽んじられてきたともいえる。 ところが、「自分が褒められる」ための努力に人々は疲れてきた。一生懸命インスタグラムを更新したところで、数万人のフォロワー数を抱えられるインスタグラマーはごくわずかであり、誰もがインフルエンサーになれるわけではない。そのことに気づき始めた結果、インフルエンサーを目指そうとする人もそれに付き合わされる人々も疲れてきた。それが「いいね」疲れ、SNS疲れの正体である。 そこに来て、褒められている「誰か」、自分の好きな「何か」を応援していけばそれだけで自分の心は満たされることに気づき始めた。自分の「推し」が褒められると心も満たされるし、自分もうれしい。自分がうだつの上がらない凡人だったとしても、「推し」が夢をかなえてくれれば自分の夢もかなえられたように感じることができる。 コフートの理論ではSNSで「いいね」を獲得しようとする行為は「鏡映自己対象」、推しのような活動は「理想化自己対象」ということになる。どちらも自己愛を満たす経路なのだ。 ●「推し活」で暴走する人たちはなぜ現れたのか 一方的な誹謗(ひぼう)中傷を繰り返す「アンチファン」は繰り返しニュース等で問題視されてきたが、暴走していくファンはそれだけではない。「推し活」で自己愛を満たす人々の中には、「推し」のことを好き過ぎるあまり暴走していく人々もいる。 例えば「推し」のプライベートに踏み込んで、住所や宿泊先、移動経路、周囲の人間関係を特定して個人情報を公開する「特定班」、そのような手段で得た個人情報をもとに実際に「推し」に会いに行く「リア凸(とつ)」勢、「推し」を好き過ぎるあまり「推し」を独占したいと「推し」のネガティブキャンペーン(推しの価値を下げる言動)を繰り返す「ファンチ(ファンとアンチという言葉から生まれた造語)」、行き過ぎた同調圧力と自治を強要する「○○警察」など、暴走の種類も多種多様だ。 また、「推し」に不快な発言をした、「推し」とは釣り合わないといった独自の理論・判断で共演者やグループメンバーを攻撃・活動不能に追い込む人々も出てきている。彼ら・彼女たちの多くは、「推しを守りたい」という正義感を持ち、「推し」のことを大切に思っている一方、自分が問題行動を起こしている自覚はなく、自分の言動によって推しの株を下げ、活動の幅を制限・縮小させていることに気づいてはいない。 その原因を、「推しと自分の境界」にあると熊代氏は分析する。 「推し活は実際の人間関係をこなしたり、自身が成功をつかんだりする道筋に比べて失敗が少なく実現が容易です。しかし、推し活でさえ失敗する人々がいる。それは、推しと自分の境界が曖昧になり、一体化してしまっているために起こっているのではないかと考えます」(熊代氏) 「推し」があたかも自分の手足のように思い通りに動くと思い込んでしまうために、何かあると過激な行動に出てしまう。さらに、「推し」とSNSや配信活動などを通じて、リアルタイムにつながれてしまうことで、誰のコメントが取り上げられたか、誰のポストに「いいね」をしたか(現在は非公開になった)、誰がいくらの投げ銭をしたかが分かるため、競争心理を加速させていく。 「推し活」が広まるインフラが整ったことがトラブルを誘発する構造にもなっているのだ。 ●「推し活」で生き方を学び、人生を豊かにする そのような危険性も内包する「推し活」だが、人間関係を学び、自己を成長させていくために「推し活」は有効であると熊代氏は言う。 「推し活でうまく自己愛を確かめ、自己と他者の境界を理解して、うまく推しを推せるようになったら、次は自分の日常世界の中から『推し』を見つけるといいでしょう。日常の中で見つけた『推し』に、『この人すごい!』という敬意を持って接することで、『推し』の言動に注目し、その良さを自分の中に取り入れて成長していけます」(熊代氏) 日常生活に登場する身近な「推し」は、完璧ではない。欠点の見えない自己対象は、欠点が見えた瞬間に「次の推し」へと乗り換えることが容易なため、その欠点を受け入れる努力を怠りがちである。 ところが日常生活で見つけた「推し」との人間関係は容易に「切る」ことができない。けんかをしたり、見解の相違を容認したりしながら、多少幻滅をするようなことがあってもそれを受け入れ、それでも敬意を持って人間関係を続けていく必要がある。この「適度な幻滅」を繰り返しながら人間関係を続けていく、という点は非常に重要な意味を持つ。 尊敬もしていない人に「ああしろ」「これをやれ」と言われても心には響かない。ところが「推し」の言葉や「推し」が頑張る姿には心打たれ、「自分も練習を頑張ろう」「仕事を頑張ろう」と思うことができる。それはつまり「推し」を通じてリアルな人生を豊かにしていくことができるということでもある。 「推し」で心を満たし、「推し活」で学んだことを生かして人生を豊かにする。令和流の新たな生き方が生まれつつあるのかもしれない。 (了)
岸 のぞみ