老中・堀田正睦とハリスの日米修好通商条約の交渉開始とその背景、岩瀬忠震の重要提案
■ 岩瀬忠震の重要提案 ところで、岩瀬起草の堀田宛上申書(安政4年12月12日)には極めて重要な提言が随所に散見される。その内容は以下のとおりである。 (1)ハリスとの交渉過程を諸侯に全て開示し、腹蔵なく意見を募った上で徹底した衆議によって条約案を策定 (2)ハリスとの交渉を「国勢更張ノ好機会」と捉え、挙国一致で「国家万世ノ基」を形成し中興の鴻業を興起 (3)条約案ができ次第、「開闢以来未曾有ノ大事」であるため、朝廷に奏聞して孝明天皇の叡聞に達した上で、天下に布告して十分な措置を立案 (4)条約批准のため、使節をアメリカに派遣 岩瀬の提言は、極めて開明的かつ具体的で当を得たものばかりである。この段階で、条約の勅許獲得の流れが出来上がっていることを注視したい。さらに、万延元年遣米使節の青写真も完成している事実も見逃せない。このように、堀田・岩瀬ラインによって外政・内政がともに推進していたのだ。 安政5年(1858)1月12日、岩瀬とハリスの間で、通商条約の交渉が一応妥結した。とは言え、幕府独断で即時調印をせず、堀田は条約に反対する諸大名を抑えるために、朝廷から勅許を取る決意を固めた。こうして、勅許問題が発生し、朝廷と幕府の衝突は目前に迫っていた。
■ 将軍継嗣問題(一橋派VS南紀派)の勃発 13代将軍家定は暗愚・病弱と噂され、12代家慶時代から憂慮の声が高まっていた。ちなみに、弘化4年(1847)の慶喜による一橋家相続は、家慶が家定の継嗣とするためだとする説が広く信じられてきたが、その根拠は見当たらない。 そして、ペリー来航時に衆望を集めた水戸斉昭が期待外れであったため、将軍継嗣問題が俄然クローズアップされることになったのだ。こうして、将軍継嗣問題が惹起することになった。 将軍継嗣問題とは、14代将軍として紀州慶福(後の家茂)を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派の政争である。南紀派の推進者は、紀州藩附家老・水野忠央(ただなか)とされ、水野による大奥工作によって妹を家慶の側室にして、南紀派を有利に導こうとした。 なお、南紀派を代表する井伊直弼は、安政元年(1854)5月、同2年(1855)1月に老中松平乗全(のりやす)に継嗣(名前は挙げず)の必要性を伝達している。南紀派は、血統重視・外部意見の拒否・斉昭嫌悪、この点で結束したとされるが、その実態は意外にも曖昧である。 一方で、一橋派の推進者は、松平春嶽・水戸斉昭・島津斉彬らの有司大名が中心であり、そこに水戸藩関係者(安島帯刀)、一橋家側近(平岡円四郎)、老中阿部正弘、海防掛等が加わった。 一橋派は、「英傑・年長・人望」のある将軍のもとでの幕権の再強化を打ち出したが、その背景として、自己の幕政参画を期待する野心が存在した。嘉永6年(1853)8月10日、松平春嶽が老中阿部正弘に入説したのが起点とされるが、同意を得るも時期尚早と判断された。なお、この頃に春嶽は島津斉彬と連携を開始したらしい。しかし、堀田の態度は曖昧であり、両派から距離を置いていた。 安政3年(1856)9月、ハリスの下田来航を機に、春嶽は徳島藩主蜂須賀斉裕(11代将軍家斉の22男、12代将軍家慶の異母弟)、宇和島藩主伊達宗城と提携した。さらに、尾張藩主徳川慶勝に働きかけ、慶喜を推挙することを申し入れた。 なお、島津斉彬が篤姫を13代将軍徳川家定に輿入れさせたことは、将軍継嗣問題を有利に運ぶためとされてきた。しかし、これは幕府からの要請であり、将軍継嗣問題に絡む権謀術数説であることは、現在では否定されている。ちなみに、安政4年3月27日、斉彬は慶喜と初対面を果たしたが、「実に早く西城に奉仰候御人物」(春嶽宛書簡、4月2日)と、将軍継嗣に相応しい人物と評価している。