プレスリーを「プレスクー」、アイドル曲を「ロカビリー」と紹介…勘違いしながらも熱かった日本のロックの夜明け
1950年代半ばに成立し、またたくまに世界中を席巻したロックンロール。それを受けて、日本でも「ロカビリーブーム」が巻き起こりますが、そこには大きな勘違いがあったようで……。日本のロック黎明期について、シンガーソングライター・音楽評論家の中将タカノリと、シンガーソングライター・TikTokerの橋本菜津美が、ラジオ番組で語り合いました。 神戸にあるエルビス・プレスリー像とともに写真におさまる関西ラジオ界の巨匠 ※ラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』2025年1月3日放送回より 【中将タカノリ(以下「中将」)】 今年も始まりました『昭和卍パラダイス』。今年・2025年は“昭和100年”ということで、我々にとっては非常にプレミアムな一年になろうかと思います。 【橋本菜津美(以下「橋本」)】 明けましておめでとうございます! 年始一発目のテーマは何でしょうか? 【中将】 今回は日本にロック文化が生まれた1950年代、1960年代のロカビリーブームについて。「ロックとはなんぞや?」というお話ですね。 【橋本】 ロックとは? あらためて聞かれると難しいですね! 【中将】 音楽的には1950年代半ばに成立した、白人と黒人の垣根を超えたミクスチャーとでも言うんでしょうか。白人のカントリー、ポップスと黒人のブルース、R&Bがこの時期に互いに影響しあって生まれたのがロック音楽、ロックンロールです。 【橋本】 人種関係なく「盛り上がっていこうぜ!」みたいな。 【中将】 そうですね、まだまだ人種差別は激しかった時代ですが、やっとそれが改善に向かい始めた時代です。そして精神的な部分では荒々しく、セクシーで興奮をかきたてるような感じ。それまではアメリカのメディアにも表現の規制があって大胆なラブソングとかはあまり歌いにくかったんだけど、それを当時のミュージシャンたちが少しずつ崩していったわけですね。 では、具体的にどんな音楽だったのでしょうか? 当時の名曲の1つとして紹介したいのが、チャック・ベリー『メイベリーン』(1955)です。 【橋本】 1950年代にもうこんな音楽が! この番組を始めてから日本の50年代の音楽もたくさん教えていただきましたが、「全然違う!」と思いました。日本にも良さはあるんだけど、やっぱりレコーディング環境とか(当時の)アメリカは進んでいたんですね。 【中将】 そうですね、はっきり言ってしまうと、ミュージシャンのリズム感や演奏力も全然桁違いだと思います。 【橋本】 チャック・ベリーってどんなミュージシャンだったんでしょうか? 【中将】 もともと、ローカルのブルースやR&Bシーンで活動していたんだけど、1955年にこの曲でデビューしました。もう30歳くらいになっていたので、けっこう遅咲きですね。それまでの黒人音楽って、人生の悲哀を歌ったものが多かったんだけど、彼は「これからの時代は車、恋愛、学校だ」と、若者に響く楽しい楽曲を量産しました。音楽的にも無駄なテクニックを削ぎ落して、シンプルなんだけどノリが良くて興奮できるようなスタイルを追求しています。まさにロックンロールの父のような存在です。 【橋本】 なるほど! 現代的な考え方で音楽に革命を起こしたんですね。 【中将】 次に紹介するのは、白人側のロックンロールの代表、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』(1956) 【橋本】 ロック界のスター中のスターというイメージです! 【中将】 今でこそ音楽をやっている人なら知らない人はいないだろうというくらいの存在ですが、この曲がラジオで流れ始めた当時は「黒人が歌ってるのか?」と勘違いする人もいたそうです。当時の白人歌手はもっとスマートにジェントルに歌うのが主流だったので、白人なのにこういう歌い方をするのはすごく斬新だったんですね。 【橋本】 太い声でシャウトする感じで、激しいですもんね。こうやってロックの歴史を振り返るのって面白いですね! 【中将】 そうですね。チャック・ベリーもプレスリーも約70年前の音楽なのに、今でもハートに刺さる部分があると思っています。 さて、このようにアメリカで生まれたロックンロールですが、すぐに日本でもブームを巻き起こします。おそらく一番早く反応したミュージシャンの一人がカントリー歌手だった小坂一也さん。プレスリーのわずか半年後に『ハートブレイク・ホテル』を『ハートブレーク・ホテル』(1956)としてカバーしています。 【橋本】 いいですねぇ……でもなんでちょっとコミカルに感じてしまうんでしょう(笑)。今でも海外の方に比べると日本人って感情控えめで奥ゆかしい気がしますが……。 【中将】 ロックンロールの激しさやセクシーさはどこかに置いてきちゃったみたいな(笑)。こんなに早くしっかりカバーされていること自体はすごいんだけどね。 ちなみに当時、日本ではあまり知名度がなかったのか、小坂さんのレコードジャケットには「プレスリー」が「プレスクー」と誤植されてしまっています……。 【橋本】 かわいい(笑)。 【中将】 ともあれこれ以降、日本でもプレスリー人気は高まり、ロックンロールも浸透していきます。 だけど、その中で当時の日本人は大きな勘違いをします。そもそもロックンロールの白人寄りのいちジャンルである「ロカビリー」という言葉を、すべてのロックンロールに当てはめてしまうんですね。「黒人も白人も、ロックじゃないポップスも全部ロカビリーだ」と。 次に紹介する、山下敬二郎さんの『ダイアナ』(1958)も、日本ではロカビリーの代名詞のように言われていますが、実は音楽的にはロカビリーでもロックンロールでもないという……。 【橋本】 私もこれがロカビリーだと思っていました(笑)。 【中将】 原曲のポール・アンカは当時10代で、ロックンローラーではなくアイドルっぽいポップス歌手でした。だけど敬二郎さんは『ダイアナ』を革ジャン、リーゼントでカバーして大ヒット。平尾昌晃さん、ミッキー・カーチスさんとともに“ロカビリー三人男”と呼ばれ、日本にロカビリーブームを巻き起こします。 【橋本】 今みたいにSNSとかもありませんし、言葉の壁もあるし、そういう勘違いって起こりやすかったんでしょうか……。 【中将】 そうなんでしょうね。途中で気付いた人もいたでしょうが、ブームが盛り上がっているのに今さら訂正しようもないだろうし……。でも、こういう勘違いがあったから、世界でも独特な「日本のロカビリー」という文化が生まれたのだとも思います。むしろメリットはあったんじゃないでしょうか。 さて、次に紹介するのは、なんと美空ひばりさんのロカビリーナンバー。「ロカビリー剣法」(1958)です。当時、まだ二十歳くらいだったひばりさん。それまでにもジャズはやっておられたし、流行のロカビリーも取り入れてみたというところでしょうか。 【橋本】 歌い方は時代劇風だけど演奏はロック風で……斬新な曲ですね(笑)。 【中将】 本人主演の映画『花笠若衆』の主題歌です。当時、人気上昇中だったロカビリーバンド、堀威夫とスウィング・ウエストをバックにレコーディングしました。堀威夫さんはホリプロの創業者で現会長ですね。 ひばりさん、江利チエミさんとともに“三人娘”と呼ばれた雪村いづみさんも、こんな曲を残しています。ジーン・ヴィンセントのカバーで『ビバップ・ルーラ』(1957)。 【橋本】 すごくお上手なんですが、どちらかと言えばロックより、ジャズっぽく聴こえますね……。 【中将】 そうなんです。ひばりさんもチエミさんもジャズ世代だから、ロカビリーをやってもノリが全然それっぽくならないんですよ。『ビバップ・ルーラ』は後にジョン・レノンもカバーしているし、ロカビリーらしいロカビリーナンバーなんですけどね。それまでのジャズの4ビートに慣れた人にとって、ロックンロールの8ビートやロカビリーのつんのめったシャッフルビートはなかなか馴染みにくかったんだと思います。 その後のロカビリーブームですが、1960年代半ばにエレキブームやグループサウンズブームが起こるまで、なんとなく続いていきます。その中で出てこられたのが、後のロックシーンに大きな影響を与える内田裕也さんや尾藤イサオさんです。今回紹介する最後の曲は、尾藤イサオさんで『悲しき願い』(1964)。 【橋本】 かっこいいです。洋楽のカバーだけど、自然に日本らしく取り入れられている気がします。 【中将】 シャウトでこの時代に満ちていた理不尽への怒りやパッションが表現されていて、安心して聴ける日本のロックンロールという感じになってますよね。
ラジオ関西