悲願のJ1昇格、岡山・木村正明オーナーが振り返る社長時代
アスリートでありながら、投資家としての意識を持つ「アスリート投資家」たちに、自らの資産管理や投資経験を語ってもらう連載「 アスリート投資家の流儀 」。今回はアスリートを集めてチームを作っていく側のクラブオーナーにフォーカス。12月7日にサッカーJ1への初昇格を決めたファジアーノ岡山の代表取締役を2006年から務め、2018年までクラブを率い、その後Jリーグ専務理事を経て、2022年からオーナーとしてクラブ運営に取り組んでいる木村正明さんの第3回目です。 12月7日のJ1昇格プレーオフ決勝。岡山県岡山市のシティライトスタジアムに1万4673人の大観衆が駆けつける中、ホームのファジアーノ岡山はベガルタ仙台を迎え撃ちました。引き分け以上でJ1初昇格が決まるアドバンテージも力にして、彼らは前半20分に末吉塁選手が先制。一気に流れを引き寄せます。そして後半16分にも本山遥選手が追加点を奪い、2-0で勝利。ついに最高峰リーグ参戦を勝ち取るに至ったのです。 「ゴールドマンサックス時代、大事なディールの時に着用し、2007年のJFL、2008年のJ2昇格の時にも着た”勝負スーツ”があるんです。それからは着るつもりもなかったんですが、12月1日のプレーオフ準決勝のモンテディオ山形戦から引っ張り出して着ることにしました。ちょっとカビ臭かったですけど」と木村さんは苦笑しましたが、そのスーツ効果もあって、悲願の昇格が現実になったのです。 岡山は2009年から16年間もJ2在籍を余儀なくされたクラブ。着実に前進はしていたものの、長い道のりだったのは間違いありません。その間、木村さんはどのようなアクションを取っていたのでしょうか。そのあたりを改めて伺いました。 ■毎年最低5000万円以上の協賛金 ――岡山のJ2参入は2009年。木村さんはそこから2018年まで社長を務めましたが、どのように経営拡大を図ったのでしょうか? 木村:2年で2カテゴリー昇格したんですけど、2009年にJ2入りした時の売上高は2億3000万円でした。当時のJ2平均が約10億円だとすると、かなり厳しい状況。ただ、2012年にJ2クラブが22チームになるまでは降格がなかったので、それまでは若い選手を育てる方針を取っていました。 経営者の私が号令をかけたのは「毎年、最低でも5000万円以上の協賛金(スポンサー)収入を増やす」ということ。それだけは絶対に達するとスタッフ全員で誓って、2018年の社長退任時までほとんど達成させました。 もう1つは「平均観客動員を1万人にする」という目標を掲げました。2006年ドイツワールドカップ(W杯)日本代表の加地亮(現解説者)、2010年南アフリカW杯代表の岩政大樹(*札幌監督)、2016年リオデジャネイロ五輪代表の矢島慎也(現清水)らがいた2016年に、初めてJ1昇格プレーオフ決勝まで行ったんですけど、その年はクリアしましたね。 ――木村さんが社長を退任した時点でのクラブの経営規模は? 木村:協賛金収入は7~8億円までいき、売上高も15億円まで達したと思います。Jリーグの歴史を見ても、12年間も社長を務めた人は少ないですね(笑)。私が社長をやっていた時は入場料を低めに設定していたんですけど、後任の北川真也(現会長)にバトンタッチしてからは少し高めに設定されたと思います。 2023年は売上高が約20億円、協賛金収入が8億6100万円に達しています。「このレベルになれば、ワンチャンスあればJ1に上がれるかもしれない」という手応えは感じていました。 ■2013年に政田サッカー場を整備 ――社長時代に苦労したことは? 木村:J2初期の2012年まで練習環境が整っていなかったことですね。2010年に28万5000人の署名を集めるなど努力を重ね、2013年に現在の練習拠点である岡山市東区升田の政田サッカー場が整備されました。天然芝ピッチとクラブハウスがないと高いレベルの選手は来てくれない。加地や岩政が来てくれたのも、環境改善によるところも大だったと思います。 ――その頃は木村さんが個人資産を投入するような状況ではなかったと思いますが、イザという時のために投資や運用は続けていたのですか? 木村:そうですね。J2に上がってからは100年間続くクラブを作るために、岡山の有名企業に株主に加わっていただき、年間運営規模も着実に上がっていったので、私個人が資金を投じることはありませんでしたが、筆頭株主としての備えは考えていました。 やっていたことは今と一緒で、週末に世界の市況や為替相場などをチェックして、買いだと思ったら株や債券を買うといったことです。 クラブがまだ下部リーグに在籍していた頃は私自身の存在が知られていなかったので、不動産投資がメインだったんですけど、名前が知られていくにつれて難しくなった。2010年代は徐々に有価証券の運用に切り替えていったというのが実情ですね。 ――そうなると"地道な運用"ということになりますね。 木村:はい。運用資金が100あったとしたら、100投資するんですけど、配当が出てきて、たまに値上がり益が出たら売って、その利益をまた投資に充てていくというスタイルでした。原資は限られますけど、ちょうど2010年代は株価が右肩上がりだったので、順当に推移していた感じだと思います。 ■リーグ全体の仕事に専念 ――2019年に木村さんはJリーグ専務理事に転身します。その時はクラブをどう見ていたんですか? 木村:後を託した北川がよくやってくれていたので、安心して見ていました。彼は北川正恭元三重県知事の息子で、2008年末から私と一緒にクラブ経営に携わっていました。 クラブ社長というのは、成績不振や何らかのトラブルがあった時には責任を取らなければいけなくなる可能性のある仕事。そう考え、つねに彼に後を託せるように準備は進めてきたつもりです。もちろんファジアーノは自分が作った子供のような存在なので、つねに気になっていたのは事実ですね。 そんな矢先の2020年に新型コロナウイルス感染拡大が起きた。Jリーグは3カ月間の休止を余儀なくされたわけですが、「試合ができなければJリーグが潰れる」という強い恐怖を抱きました。それは今でも忘れません。 ーーそこで木村さんは、Jクラブの親会社が赤字補填のため捻出した協賛金の税制優遇措置を国税庁に認めてもらえるよう努力したそうですね。 木村:そうですね。これはプロ野球球団だけに認められていたんですが、コロナ禍に打診したことでJリーグクラブに適用されることになりました。 その後、親会社からの協賛金は一気に増えていますし、クラブ経営・Jリーグの規模拡大につながっていると思います。2022年3月に退任するまではリーグ全体の仕事に専念していました。 ――その後、岡山のオーナーに復帰するわけですが、ちょうど2022年が今の木山隆之監督体制の1年目でした。 木村:私が離れていた3年間は有馬賢二監督(*町田コーチ)が率いていましたが、予算的な問題もあり、順位的には9位・17位・11位と苦しんでいたので、再起を懸けて挑んだシーズンだったと思います。クラブとしては経営陣と強化部が週1回ペースで話して、一体感を持ちながら強固な組織を作ろうとしていた。それは上手にできていたと思います。 私自身はJリーグ専務理事からいきなり経営者に戻ることはできなかったので、株を買い戻してオーナーとなり、クラブの動向を見守っていくというスタンスを取りました。 その2022年はJ3・3位。プレーオフ1回戦でモンテディオ山形に0-3で敗れ、岡山はまたしてもJ1昇格を逃すことになりました。そうした中、木村さんはオーナーとしていつでもクラブをサポートできる体制を整えようと尽力。この時期はコロナ後の株価上昇、大幅な円安が進み始めた頃。市況の大幅な変化も加味しつつ、資産形成にも力を注いだといいます。 そこから初昇格への流れ、今後のビジョンなどを次回の最終回でじっくりと伺います。 元川 悦子(もとかわ・えつこ)/サッカージャーナリスト。1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。 ※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
元川 悦子