脳の老化研究、研究史を含めて基礎から丁寧に解説―森 望『老いをみつめる脳科学』養老 孟司による書評
◆脳の老化研究、基礎から解説 脳の老化について、現在に至るまでの科学研究を、研究史を含めて基礎から丁寧に解説した一般向けの著作である。高齢化社会において、こうした分野で総説が書かれることは、もろ手をあげて歓迎すべきことであろう。 脳の解剖・生理学から説き起こし、次に神経成長因子を最初の案内として、化学的な視点からする現代の神経科学の発展とその結果を著者自身の研究生活にも沿って解説する。一般的に考えられる老化という主題になかなか届かないので、途中で投げ出したくなる読者もいるかもしれないが、脳についての現代の老化研究をきちんと理解したいと思うなら、どうしても必要と考えられる予備知識を与えてくれる。この程度で辛抱できないなら、現代科学はとうてい理解できないであろうと感じる。 内容がほとんど学術書に近いので、ところどころに息抜きのコラムを挟み、図表を適切に入れている。たいへん要領をえており、この点でも読者への配慮が行き届いた良書と言っていいであろう。直接、いわばマクロの老化に関する部分は、本書の最後の十一章「百寿者の脳をみる」、十二章「老化脳を守る」で取り上げられている。私自身は古い教育を受けたので、この本から新しい知見を得られることが多く、自分の誤解をあれこれ訂正せざるを得なくなった。百寿者の脳で灰白質の萎縮はあっても、機能が目立って落ちているわけではない例がある、という指摘で少し安心した。 脳の老化は他の組織や器官と違う面がある。脳の構造・機能の単位は神経細胞=ニューロンであり、ニューロンは分裂新生しないのが通常である。だから脳の老化は細胞の老化であって、どうしても話が微視的にならざるを得ない。皮膚のように細胞がどんどん分裂して入れ替わることはほとんどない。そのかわり樹状突起の棘(とげ)に軸索が付着するすき間、シナプスの動向が中心となったりする。話が細かい。だから対象が分子となり化学的となる。個々のニューロンの老化は細胞内の出来事なので、関連する遺伝子群とその産物の働きの解明が中心的な課題であり、本書の中枢はそうした考察の部分だと言えよう。そこでは化学的な研究が中心なので、専門用語に慣れない人には読みにくいはずである。私も分子的な見方は苦手なので、読書というより勉強になってしまった。 著者はアメリカでの研究歴が長い。コラムでもその時の幸せそうな感じが伝わってくる。現在の老化研究はアメリカがいわば中心であり、世界一お金持ちの国が研究に投入する資源には日本から見ればため息が出るほどの余裕がある。それをいわば無視して、最終的な研究成果を競って頑張ってみても、この前の戦争みたいになりかねない。 科学研究は知りたいとか、自然現象を解明したいとかいう動機で始まるが、現代ではそうした素朴な時期は過去のものとなり、全体にシステム化され、研究者はその中で一定の方向に動かされざるを得ない。科学に限らずどのような分野の仕事であれ、現代社会ではその意味での自由な仕事などほとんどないであろう。学問の自由とはなにか、本書とは直接の関係はないが、なぜか読後に考えこんでしまうことになった。 [書き手] 養老 孟司 1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。1962年東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年東京大学医学部教授を退官し、2017年11月現在東京大学名誉教授。著書に『からだの見方』『形を読む』『唯脳論』『バカの壁』『養老孟司の大言論I~III』など多数。 [書籍情報]『老いをみつめる脳科学』 著者:森 望 / 出版社:メディカル・サイエンス・インターナショナル / 発売日:2023年12月8日 / ISBN:4815730911 毎日新聞 2024年2月3日掲載
養老 孟司
【関連記事】
- ベルイマンの映画に通じる構築性、久しぶりに魅力的な本を読んだ―ホーカン・ネッセル『悪意』養老 孟司による書評
- 当事者の体験を語る語彙が、精神医学には圧倒的に不足している―中村 佑子『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』斎藤 環による書評
- 専門的な治療とふつうの相談を架橋、複数の知を整理する球体の臨床学―東畑 開人『ふつうの相談』斎藤 環による書評
- 社会を映す、網の目ネットワーク―マーリン・シェルドレイク『菌類が世界を救う ; キノコ・カビ・酵母たちの驚異の能力』養老 孟司による書評
- 「単線」で語れぬ害虫駆除の歴史、丹念に描く―千葉聡『招かれた天敵――生物多様性が生んだ夢と罠』養老 孟司による書評