【震災1年】日本の避難所いつまで雑魚寝:能登半島地震でも「生活の質」課題 台湾に学ぶ民間主導型
滞った支援物資、配送システム活用できず
政府などがその「プッシュ型」で食料、燃料、生活用品を含め物資を被災地に送り込み始めたのは発災翌日の1月2日からだ。 だが、政府検証チームの「自主点検レポート」は事後検証で、「発災直後に避難所によっては食料などの物資が不足した事例がみられた」とした。実際、1月3日の読売新聞電子版は、輪島市の坂口茂市長が会議で「1万人の避難者に対し、物資は2000食しか届いていない。水、食料が足りない」と窮状を訴えたことを伝えている。 甚大な被害があった地域は能登半島の先端エリアにあり、県庁所在地の金沢と能登半島とを直結する自動車専用道路「のと里山海道」などが寸断。都市からの輸送ルートが消失し供給網が滞った。当初は自衛隊のヘリなど大量の輸送が難しい手段を使わざるを得なかったという面もある。 ただ、配送時の混乱やシステムの周知や訓練の不足もあったとみられる。「自主点検レポート」によると、全国からの物資は一度、広域物資輸送拠点となった石川県産業展示館(金沢市)に集められたが、パレットにまとまっていないためフォークリフトが使えず、人力による荷揚げ・荷下ろしとなり、時間を要した。支援物資の分配は当初、手書きの紙を写真に撮り、メールで共有するなどのアナログな手法で行われていた。事前に準備したネット上のニーズ把握、在庫・分配管理システムが稼働したのは1月5日になってからだった。 能登では2007年にも大規模な地震が起きており、外部からの供給が途絶える中で避難生活を乗り切る必要性は認識されていたが、実際の混乱状況の中では教訓を生かすのは難しかった。
台湾では発災2時間で避難テント
能登と比較されたのが2024年4月3日に起きた台湾東部沖地震への対応だ。 被災の中心となった花蓮県ではマグニチュード7.2の強い地震に見舞われ、18人が死亡、1155人が負傷した。 地元の花蓮県政府の対応は早かった。地震発生後1時間以内にメッセージアプリ「LINE」で関係者の連絡ネットワークを確立。避難所スペースを開放し、発災2時間後には民間団体がプライバシーに配慮したテントを避難所に設営し、避難者に提供した。 避難所は冷房が効き、温かい食事なども提供。行政対応窓口や無料Wi-Fi、スマートフォンなどの充電サービス、無料アロママッサージ、無料クリーニングなどが利用できる環境を整備した。子どもが遊ぶスペースにはゲーム機も用意した。 避難所の環境整備は、仏教系の「慈済基金会」などの民間団体が機動的に動いた。慈済基金会は災害対応の専門ボランティアを擁して事前準備を進め、災害があれば国内外を問わずすぐに駆け付ける体制を整えている。この団体が外国の専門工学博士と協力して開発した「プライバシーに配慮したテント」は、上部が空いているものの四方が囲われる構造になっていて、一つのテントは1分で完成できる。内部には2台のベッドとテーブルと椅子のセットを装備。慈済基金会の劉鈞安・広報部責任者は「テントによりプライバシーが保たれ、避難者の話し声が小さくなった。避難所では心の安全が何よりも大切です」と語る。