「お前はなにもわかってない!」…明治時代、文豪たちのガチンコ喧嘩が起きた「衝撃の理由」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
森鷗外が果たした役割
最初に「美学」という訳語を使ったのは、自由民権運動にその理論的基盤を提供したことで知られる中江兆民であった。一八八三、一八八四年に兆民は、文部省の委託を受け、ユージーヌ・ヴェロンの『美学』を『維氏美学』(上・下)という表題で、翻訳出版している(維氏とはヴェロンのことを指す)。この『美学』のなかでヴェロンはまずプラトンから現代に至るまでの美学を批判することから始めている。それらは「粋美」つまり究極の美、理想の美とは何かをめぐって議論しているが、それは空想と神秘とがないまぜになったものであり、「芸術の実施に於て害有りて益無き者」であるとして退けている。そうした美の理解を批判し、「美学をして真の経路に就かしめんと」することがこの書に込めたヴェロンの意図であった。理想主義的な形而上学を排し、オーギュスト・コントらの実証主義を踏まえた立場から美について論じようとしたのである。この書は、あとで見る坪内逍遙や、洋画家の高橋由一、評論家・小説家の内田魯庵らにも影響を与えた。 文学者の森鷗外も、日本における美学の受容という点で大きな役割を果たした。たとえば一八九二年から翌年にかけて鴎外は、エドゥアルト・フォン・ハルトマン(Eduard von Hartmann, 1842-1906)の『美の哲学』の一部を祖述した「審美論」を、そしてそれをもとに美術評論家の大村西崖との共著という形で一八九九年に『審美綱領』を出版している。これらにおいて鷗外は「美学」ではなく、「審美学」という訳語を用いている。 「審美論」によればハルトマンは、さきに述べたフェノロサのような美の理解を、稚拙な実際主義であるとして退けている。私たちが感覚器官を通して受けとる以前の事物は分子とその運動だけであり、そこに美を求めることはできないという理由からである。しかし逆にまた、美はただ単に主観のうちに、あるいは意識のうちにあるとする立場も誤った理解であるとして批判している。美は主観が生みだす「象」、「仮象」のなかにあるというのが、ハルトマンの美についての基本的な理解であった。この「象」ないし「仮象」は主観が作りだすイメージであるが、空想のような空虚なものではない。その点に関してハルトマンは、「美しき仮象は偽にあらず。意識の中に盛られて実在する以上は、想なる実物なり」と述べている。美は意識のなかに実在する実物であるというのがハルトマンの、そして鷗外の考えであった。