「今、どの本を読むより先に開き、どの映画よりも先に知ってほしい」と北村薫が願う一冊とは(レビュー)
父と二人で実家に暮らす32歳のナツコは、社会の不平等にモヤモヤし、誰かの些細な一言に考えをめぐらせながら、淡々と漫画を描き続ける。その日常を描いたのが、第28回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した漫画『ツユクサナツコの一生』(新潮社)だ。 著者はイラストレーターの益田ミリさん。淡々と日々を送る登場人物たちの何気ないセリフにはっとさせられ、予期せぬ展開に心を揺さぶられる本作の魅力とは? 「どの本を読むより先に開き、どの映画よりも先に知ってほしい――そういう一冊」と推薦する作家・北村薫さんの書評を紹介する。 *** 金太郎飴を、いただきました。根岸の子規庵に行かれた方のおみやげです。 普通なら、金太郎さんがこちらを見ているはずの切り口から、男性の顔がのぞいています。そうでない飴にあるのは、不思議な模様に見えます。 「顔は正岡子規。もうひとつは、へちまですよ」 とのこと。 子規は三十代半ばで世を去りましたが、残した仕事はまことに大きなものです。その忌日、九月十九日は糸瓜忌といわれます。 飴の顔を見ている時に、メールがきました。 ――益田ミリさんの『ツユクサナツコの一生』について、書いてもらえますか。 とのこと。 二つ返事で、お受けしました。今、どの本を読むより先に開き、どの映画よりも先に知ってほしい――そういう一冊だからです。 しかし、いざ筆をとろうとして、はたと困ってしまいました。未読の方の目に触れるかも知れない。これがどのように展開される本なのか、読む前に知らないでもらいたい。 それは、ここに描かれているのが《人生》だからです。人は、白いページに自分の毎日を書き込んでいきます。だから読者も、何も知らずに読み始めてもらいたい。しかし、そうとだけいってすますわけにもいきませんから、少しだけ言葉を紡いでいきます。 本が本であることの力を見せる一冊です。最初に、ほの赤く染まった雲の写真が、引きだしの中にあるのをふと見つけたようにある。そして《ツユクサ(露草)》の絵。そこから、ツユクサナツコの物語が始まります。 彼女はドーナツ店で働いています。うちに帰ると、父親と二人暮らし。そして、見たこと聞いたことに触発されると、 ――ヨシ と机に向かい、漫画を描き始めます。物語は『おはぎ屋 春子』。描きながら、ナツコの主人公への思いが、 ――春子…… と溢れます。 物語にも、物語の中の物語にも、さまざまな生きた登場人物が現れます。重層的な構成により、われわれは、表現の力を如実に感じることになります。 創作者ナツコは、主人公に呼びかけます。 春子、 アンタは わたしとは違うんやな アンタは どこから 来たんやろ