「自責」の誤用
「すべて自責」に意味はあるのか
Aさんの実施した社員教育では、多くの社員がアカウンタビリティの考え方に共感してくれました。また、社員数があまり多くないこともあり、思いのほかすぐに、その考え方が業務の中でも活用されるようになりました。 ただ、気になることもありました。 「その発言はヴィクティムだよ」 「そういうヴィクティムな姿勢はよくないね」 と、他者を批判する言葉として使われているのを耳にしたからです。「そういう使い方でいいのだろうか」となんとなく違和感を感じていました。 そしてA氏は冒頭の新入社員の言葉を聞いて、自分の勘が当たっていたことを自覚しました。 そこでA氏は、当初の予定よりも多くの時間を割いて、新入社員の話を丁寧に掘り下げていきました。すると、ようやく彼らの口から現教育体系の問題点がでてきました。 「この点については、感じたときに教えてほしかった」 とA氏が言うと、 「そんなことを言ったら環境のせいにするヴィクティムな社員だと言われてしまいます」 という答えが返ってきました。 アカウンタビリティとは「自分に何ができるか」を考えることであり、誰に責任があるかを問うものではありません。ところが「環境や周囲のせいにしない」という部分だけを捉えてしまうと、「全て自責で捉えることが良いことだ」という錯覚が起こります。つまり「自責の誤用」です。
責任を指摘するのではなく、一緒に考える
アカウンタビリティにおいて大切なことは、 「自分にできることは何だろうか?」 という問いです。最善の行動の選択肢を探し続け、自ら行動を起こすとともに、自らの選択の結果の責任を引き受けることにあります。 「その発言は、ヴィクティムだね」 という指摘は、 「あなたは責任を引き受けていないよね?」 という指摘に過ぎません。指摘するだけでは、相手は何をしてよいのか分からなくなる可能性があります。 A氏の組織で起きたような「自責の誤用」が起こっている事例は、決して少ないケースではありません。アカウンタビリティの概念をご紹介すると、多くの組織で、 「ああ、自責のことですね。うちでも推進しています」 というコメントをいただきます。ただ、詳しくお話を聞いてみると「自責の誤用」が起きていることが少なくないと感じます。 アカウンタビリティや「自責」の考え方は、たしかに奨励されるべきものでしょう。しかし「誤用」が起きてしまうと、それはかえって組織にダメージを与えることにもなりかねません。 独立研究者の山口周氏は、ハーバード・ビジネス・レビューで、「目上の人に対して反論したり主張したりすることに対する心理的な抵抗感」の強さと国別一人当たりのGDP、あるいはイノベーションランキングの相関関係が極めて高いことを指摘しています。つまり、目上の人に対して反論や主張をすることに抵抗を感じやすいカルチャーでは、組織的なイノベーションが起きにくい可能性があるのです。 現場社員が勇気をもって発した反論や主張に対して、 「それってヴィクティム(他責)なんじゃない?」 という上司からの一言は、恐ろしいほどの圧力を持っているのではないでしょうか? A氏の体験がそれを教えてくれます。実際に、教育体系の改善のチャンスは失われる寸前でした。 もしあなたがアカウンタビリティが発揮できていない状態にいる人を見かけたとしても、そのことを指摘したり批判したりすることは好手とはいえません。 オススメは、あなたもその人と一緒に考えることです。 「私たちに何ができるか、一緒に考えてみない?」 あなたも相手も一緒にアカウンタブルになれる素敵な選択肢だと思うのですが、いかがでしょうか?