「食べ物をあげるから」と騙して我が子を“生き埋め”に…3村が飢餓で全滅した「秋山郷」の“凄まじい言い伝え”とは
これまで、さまざまなテーマでノンフィクション作品を発表してきた作家・八木澤高明さん。新刊『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)では、スペイン風邪のパンデミックで多くの人が亡くなった村、実際に存在した姥捨山、本州にあったアイヌの集落など、八木澤さん自身の足で全国19ヵ所を歩き、日本の“裏面史”を記録している。 【写真】狐憑きや犬神憑きなどの「呪い」を解く「拝み屋」を訪ねたら…『忘れられた日本史の現場を歩く』をもっと見る 同書のなかでも、江戸時代の天明の飢饉(ききん)・天保の飢饉によって集落が3つも全滅したという長野県の「秋山郷」での、飢餓にまつわる言い伝えは凄まじいものがある。この地域を訪ねてわかった、当時の記憶とは――。 (以下、同書より一部引用・再編集しました)
天保の飢饉ですべての村人が飢え死にした「甘酒村」
息を切らせながら、ひとり尾根道を登っていた。その道は、江戸時代以前から秋山郷と下界とを結ぶ生活の道であった。今では、時おり山歩きを楽しむ人が足を運ぶだけだ。 聞こえてくるのは、私の足音と、ヒグラシのような物悲しい音を響かせているエゾハルゼミの鳴き声だけである。獣が出てこないか、不安になって、発作的に「ウオーッ」と声をあげる。熊やイノシシを避けるには、こちらの存在を知らせるしかない。雄叫びの効果があったのか、50メートルほど先でガサゴソと音がしたかと思ったら、暗灰色(あんかいしょく)をした1メートルほどのイノシシが背を向けて逃げていった。 私が向かっていたのは、かつてあった甘酒村(あまざけむら)という名の村である。名前の由来は、字のとおり、酒を作っていたことからついたそうで、何とも言えぬ生活の匂いが漂ってくる。今では廃村となってしまっているが、廃村となった理由は情緒ある名前とは対照的に極めて悲劇的である。江戸時代には飢饉が頻発したが、三大飢饉のひとつである天保の飢饉ですべての村人が飢え死にしたのだ。
「食べ物を半分あげるから穴の中に入りなさい」といって子どもを生き埋めに…
尾根を20分ほど登り、平坦な場所に着いたと思ったら甘酒村の跡だった。ぽっかりと森が開け、水田が広がっている。水田を見下ろすように墓石が置かれていた。もともと墓石は周囲の森の中に放置されていたのだが、他の地区の人々が霊を弔うために1ヶ所に集めたという。この地で無念の死を遂げた人々は、初夏の爽やかな風に揺られる稲をどんな思いで見つめているのだろうか。 秋山郷で稲作が行われるようになったのは、明治時代に入ってからのことで、江戸時代には稗や粟といった雑穀や蕎麦が主食であり、森林を切り開く焼畑によって日々の糧を得ていた。私は村の女性からこんな言い伝えを聞いていた。 「ちょうど飢饉の年のことだったそうです。秋山郷には雑穀や栃の実を混ぜて作ったあっぽという郷土食があるんですけど、甘酒村の人が、もう食べ物がないから、あっぽを分けてもらってきなさいと子どもに言ったそうです。その間に穴を掘って、子どもがあっぽをもらってきたら、半分あげるから穴の中に入りなさいと言って、生き埋めにしたそうです」 家族が生き残るために子どもを殺めても、結局甘酒村は全滅してしまった。村のどこかに生き埋めにされた子どもも眠っている。この場所全体が墓地なのだ。