「食べ物をあげるから」と騙して我が子を“生き埋め”に…3村が飢餓で全滅した「秋山郷」の“凄まじい言い伝え”とは
天明の飢饉で全滅した「大秋山村」と「矢櫃村」
秋山郷が世に知られるきっかけとなったのは、江戸時代に遡る。『北越雪譜』の著者として知られている鈴木牧之(すずき・ぼくし)が、1828(文政11)年にこの地を訪ね『秋山記行』を著したことにある。鈴木牧之は、その時甘酒村にも立ち寄った。甘酒村には2軒の民家があって、ひとりの女性と会話を交わしている。女性は牧之に「天明の飢饉では、大秋山村が全滅してしまったが、私の村は何とか大丈夫だった。食べ物にも困っていない」と言った。しかし、それから10年も経たぬうちに、甘酒村の人々はすべて亡くなってしまった。おそらく、牧之と話をした女性も飢饉で亡くなったことだろう。 甘酒村が全滅したのは天保の飢饉であるが、それより50年ほど前の天明の飢饉でも、大秋山村と矢櫃村(やびつむら)の2つの村が全滅している。 大秋山村は、秋山郷でも最初に人々が集落を形成した場所だったことから、大秋山と呼ばれていた。飢饉が発生した当時、8軒の家があったという。私はその場所へと向かってみた。 薄暗い林の中の道を、30分ほど歩いていくと、かつての大秋山村の集落跡に着く。その目印は1ヶ所に集められた墓である。ひとつの墓には一〇月三日という命日が刻まれていた。天明の飢饉の際に亡くなった村人のものだという。旧暦の10月といえば、新暦でいう11月下旬ぐらいのことだ。秋にほとんど食べ物を収穫できず、冬を前にこの人物は息絶えたのだろう。私は名も知らぬ故人の墓標に手を合わせた。
「ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ」
ここ秋山郷では、飢饉によって3つの村が全滅した。それ以外の地区でも、少なからぬ死者が出たが、かろうじて全滅を免れている。例をあげれば、天明の飢饉では、小赤沢(こあかさわ)地区で、22軒のうち9軒が全滅し、秋山郷全体で173人が亡くなっている。天保の飢饉の際には和山(わやま)という地区で、5戸あった家が男女2人を除いて全滅している。この土地の人々は常に飢饉による飢え死にと隣り合わせの厳しい生活を余儀なくされていたのだった。 大秋山村跡の近くに屋敷という地区がある。そこで91歳になる老婆と出会った。昔の生活はどのようなものだったのか。 「昔は畑まで1時間半も歩かなきゃいけなかったから朝早くから家を出て、それから畑仕事をして、夕方家に帰ってきたら、石臼を挽いたりして、夜中まで働きどおしだったよ。田んぼはなかったからお米は食べられなかった。ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ。昔に比べたら、いい時代になったな」 江戸時代の飢饉で最後に村人が死に絶えた時代から、200年近くの年月が過ぎた。飢饉という言葉は、歴史の中に埋もれているようにも感じるが、老婆の話を聞きながら、日々食卓に食べ物が並んでいることが当たり前ではないという思いを噛みしめたのだった。 八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年、神奈川県横浜市生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランスとして執筆活動に入る。世間が目を向けない人間を対象に国内はもとより世界各地を取材し、『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア』(亜紀書房)『花電車芸人』(角川新書)『日本殺人巡礼』『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)『裏横浜 グレーな世界とその痕跡』(ちくま新書)『殺め家』(鉄人社)などがある。 協力:辰巳出版 辰巳出版 Book Bang編集部 新潮社
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