アドラー『嫌われる勇気』で生じた2つの「誤解」 「トラウマは存在しない」説と「課題の分離」
相手には相手の考えがある。相手には相手の受け取り方がある。 そうとらえて、気にしすぎないことは大切です。 また、「相手の問題・課題なのだから」と考えると、相手の顔色を気にしすぎずに、自分らしく振る舞い、発言することもできます。 そのため、「人間関係が楽になった」「嫌われる勇気をもつと、人の顔色を気にしないで自分らしくいられる」などと助けになった人も多いことでしょう。これはこれで、大切なことと思います。
ただ、「課題の分離」は、人間関係に悩む人の「最終解決策」ではないのです。 ■親子の関係を例に 例えば、親子の関係です。親が「部屋を片付けてほしい」と言ったところ、子どもが不機嫌になったとします。 子どもが不機嫌なのは、子どもの課題です。子どもが「部屋を片付けない」のも子どもの課題です。 けれどもこのときに課題の分離をして、親が子どもに対し、「私は『部屋を片付けてほしい』と思っているが、その思いをどう受け取り、行動するかはあなたの課題であり、私の課題ではない」というスタンスをとったとします。
「これはあなたの課題です。私の課題ではありません」ということです。けれどもそこで終わると、親の心は楽になっても、子どものほうは突き放されたように思うことがあります。 子どもが「自分は大事にされてない」と感じたりするのです。 ですから、「部屋を片付けてほしい」と提案し、最終的に片付けるかどうかは「子どもの課題」ではあるけれど、「一緒に考えよう」と「共同の課題」を設定するのです。 この「共同の課題」を設定することが、人間関係に悩む人にとっての最終解決策であり、とても大切なポイントです。
「部屋を片付けてほしい」のは、「親の課題」です。親が勝手にかけた子どもへの期待です。子どもがそれをどう受け取るかは「子どもの課題」です。 親自身が、「子どもが言うことをきかない」とイライラしたり、「片付けなさい!」と一方的に口を出してしまうと「相手の課題に土足で踏み込む」ことになってしまいます。 この場合、「課題の分離」を用いてお互いの課題をいったん分離し、その次にお互いが協力して取り組む課題として「共同の課題」を設定するのです。