「特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ」…「特攻反対」を公言する飛曹長が死を覚悟した「特攻隊員」にかけたことば
フィリピン最後の特攻機
4名は休憩の暇もなく特攻に出すが、残りの者は今夜、迎えの飛行機で台湾に送るという。角田は、はなはだ割り切れないものを感じた。結局、一緒に行軍してきた予備学生十三期出身の住野英信中尉が、 「どうせ早いか遅いかの違いですから、私がやります」 と手を挙げて指揮官に決まった。そして、列機をもたない住野中尉のために、残る3名の特攻隊員を士官たちが合議で決めた。ところが、ここまで来たのに自分の列機を進んで差し出す者はいない。3人目がどうしても決まらず、角田は、たまらなくなってもっとも信頼している鈴村二飛曹を推薦した。苦い後悔を覚えながら――。 住野中尉以下の特攻隊は、第二十七金剛隊と命名され、ただちに発進した。しかし長く露天に置かれたままの零戦は十分な整備がされていなかったらしく、住野機はかろうじて離陸したものの、鈴村二飛曹機は上昇できずに飛行場内に不時着、岡本高雄飛長機も途中、故障で不時着し、住野機だけが直掩機・村上忠広中尉機と2機でリンガエン湾へと向かった。敵艦が見えたとたん、住野機はまっしぐらに突入してゆく。村上機もそのあとを追う。だが、途中、敵戦闘機の襲撃を受け、そこで村上は住野機を見失った。米軍記録によると、この日の特攻機による損害はなかった。 これが、二〇一空、そしてフィリピンから出撃した最後の特攻機だった。 昭和19年10月21日の特攻隊初出撃で大和隊の久納好孚中尉が未帰還になってから、昭和20年1月25日、第二十七金剛隊の住野中尉が出撃するまでの約3ヵ月の間に、海軍の出した特攻隊の未帰還機は333機(陸軍は202機)におよんだ。 いっぽう、昭和20年1月9日から2月10日までの間に台湾に脱出できた搭乗員は、約525人といわれている。 飛行機を失った第一航空艦隊が山ごもりの準備に追われている頃、東京の軍令部では別の動きがあった。第二航空艦隊を解隊し、第一航空艦隊の守備範囲を台湾まで広げるという、兵力部署の変更である。 門司副官の記憶では、福留中将以下、二航艦の司令部がフィリピンを発った翌日の1月7日から、小田原参謀長や猪口先任参謀が大西中将のもとを訪れ、いままでの山ごもりの相談とは何か違う調子で会談をしていたという。はっきりとおかしいと感じたのは、ツゲガラオに向かう搭乗員を送り出したあと、1月8日午後のことだった。 この日の午後から翌日にかけて、南西方面航空廠長・近藤一馬中将や第二十六航空戦隊司令官・杉本丑衛少将、同参謀・吉岡忠一中佐を司令部に呼ぶよう、門司は猪口参謀に命じられた。 猪口が、司令部内の動揺を心配して、その用件については門司にも伝えていなかったが、このとき、軍令部から第一航空艦隊司令部の台湾への転出命令が届いていたのだ。 戦後になって、門司が吉岡参謀に聞いたところでは、最後までフィリピンに留まって指揮をとる決意でいた大西中将は台湾転出に納得せず、杉本少将と吉岡参謀が「空地分離」の理屈で説得したのだという。 つまり、第一航空艦隊司令部は、飛行機隊(甲航空隊)を指揮する司令部であり、軍令部が一航艦に期待しているのは、台湾で航空戦の指揮を続けることである。フィリピンに残るのは地上員であり、飛行機を持たない乙航空戦隊(飛行場整備を主な任務とする)の第二十六航空戦隊司令部が指揮をするのが筋である、という論理である。 「あとは引き受けましたから、長官は命令に従ってください」 と、杉本少将は大西に直言した。この条理を尽くした説得に、大西はようやく納得し、台湾に後退することを決心した。1月9日、昼前のことである。杉本少将はこの前年、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死したさいの護衛戦闘機隊の司令で、その責任をここでとるつもりだったのではないか、と多くの関係者が証言している。