「特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ」…「特攻反対」を公言する飛曹長が死を覚悟した「特攻隊員」にかけたことば
誰一人言葉を発さない
脱出が決まると、第一航空艦隊司令部では慌しくその準備が始まった。 「この戦争の前途にはもはや光明はなく、残ろうが残るまいが大差ない、とも思いましたが、ピナツボ山麓にこもるのと、内地の延長のような台湾に戻るのとではさしあたり大きな差がある。率直に言って助かった、と思いましたが、残留者を残していくことに後ろめたいような、胸が痛む気持ちにさいなまれました」 と、門司は言う。残留部隊の指揮官たちが、 「あとは引き受けました」 と言ってくれるたび、ますます気が引けるような感じがした。 すでに山中に運び込んだ大西中将や門司の荷物はそのままにして、1月9日夜、バンバンの司令部から迎えの飛行機が来るクラーク中飛行場へ、2台の車に分乗して向かう。 門司は、長官車の助手席に座り、後席に大西と2人の幕僚が座った。車のなかで、誰も言葉を発する者はいなかった。 1月9日、米軍はリンガエン湾に上陸を始め、ルソン島の地上戦が始まった。1月24日には早くも、一航艦が司令部を置いていたバンバンの丘に攻め込んできた。 クラークの複郭陣地に立てこもった海軍部隊は、約15400名といわれる。彼らは、慣れない陸戦で、戦車を前面に立てた米軍の圧倒的な火力を前に絶望的な戦いを続けた。クラーク防衛海軍部隊のうち、生きて終戦を迎えたのは450名のみだった。 大西以下、第一航空艦隊司令部の人員を乗せた一式陸攻が台湾南部の高雄基地に着いたのは、1月10日早朝のことである。一航艦は、ひとまず基地から車で10分少々の小崗山の洞窟に司令部を置いた。 台湾の基地部隊を統括する第二十一航空戦隊の司令官は、台湾沖航空戦のときの城島高次少将から、中澤佑少将に代わっていた。中澤は、海軍の作戦指導を統括する軍令部作戦部長として、特攻兵器の開発を裁可し、特攻隊の編成を推進した責任者の1人である。頭は切れるが、このところの戦いでの一方的敗北に見るように、その作戦家としての能力には疑問符がつく。 妙なことに、フィリピンからの脱出が最後に決まった一航艦司令部が、いちばん早く台湾に到着した。1月6日夜、バンバンの洞窟で別盃を交わしマニラに向かった福留中将以下二航艦司令部の一行は、マニラ方面からリンガエンに北上する陸軍部隊や、疎開する現地人の群れに逆行する形になり、しかも途中、橋が落とされていたりして、マニラ郊外・キャビテの水上機基地に着くまでが一苦労だった。