「特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ」…「特攻反対」を公言する飛曹長が死を覚悟した「特攻隊員」にかけたことば
「俺は、死なない」
「航空隊司令は、搭乗員しか腹心の部下がおらず、搭乗員を帰して1人残られるのが気の毒でした。私は、予科練で陸戦の小隊長としての訓練も受けているし、自分の部下搭乗員が10人近くいたから、指揮小隊として舟木中佐とここに残って戦うべきか、迷いました。搭乗員は台湾に帰れといわれても、腹が痛いとでも言えば残ることもできたんです。でも、勝っても負けてもあと半年頑張れば戦争は終わる、そう思って別れてきてしまいました。その後、部下に殺される非業の死を遂げられたと聞いて、いまでも、あのとき残ってあげればよかったなあ、と後悔しています」 と、角田は回想する。 脱出する搭乗員たちは隊列を組んでバンバンを出発したが、敵に制空権を奪われ、日中は行軍できないので、歩くのはもっぱら夜間である。途中、ゲリラの襲撃を受け、味方の誤射で命を落した搭乗員もいた。 角田が一緒に歩いた搭乗員のなかに、練習生の頃から実戦部隊に出るまで同じ航空隊にいた岡部健二飛曹長がいる。開戦以来、空母「翔鶴」零戦隊の一員として数々の空戦の場数を踏んできた29歳の岡部は、「特攻反対」を公言してはばからなかった。岡部は、大きな布袋にいっぱいの荷物を背負い、それを宿営のたびに広げてみんなに見せびらかす。荷物の中身は、シンガポールで買ったという女性用のハイヒール、香水、化粧品など。全て内地で待つ妻への土産であった。 「俺は、死なない。かあちゃんにこれを持って帰ってやるんだ」 岡部は言い、角田にも、 「角(つの)さん、特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ。戦闘機乗りは死んだら負けだよ」 と、さかんに特攻を思いとどまらせようとした。岡部の気持ちはありがたいが、一度特攻編成された以上、角田が自分の一存でそこから抜けることはできない。 行軍の途中、ダバオで一緒になった列機の鈴村善一二飛曹が、いつも角田に影のように付き従っていた。鈴村は、角田に好物の酒を飲ませようと、自分の飛行服の下のシャツを脱いで裸となり、それを現地人の一升ほどの椰子酒と交換して届けてくれたこともあった。 角田が、約200名の搭乗員とともに、ようやくツゲガラオに着いたのは出発から17日後、1月25日のことだった。 「搭乗員はふだん歩き慣れない上に、飛行服、飛行靴姿で歩くのは、重くて大変でした。一週間ほどで食糧もなくなり、あとはところどころに駐屯している陸軍のご厄介になりました。陸軍さんは自分たちが食うものも乏しいのに、苦労して行軍している戦友を見ると必ず助けてくれる。短い区間でしたがトラックにも乗せてくれましたしね。ずいぶんお世話になりました」 と、角田は言う。ところが、やっとの思いでツゲガラオに着いた搭乗員たちが飛行場の指揮所前に整列してみると、待っていたのは、 〈零戦が整備されているので、ただちに特攻隊員士官1名、下士官兵3名を選出するように〉 という非情な命令だった。基地にはほかに10数名の飛行服姿が見えるが、彼らは志願する気はないらしく、二〇一空の搭乗員が着くのを待っていたようだった。