故郷の丘からの風景がくれた「何とかなる」の思い セコマ・丸谷智保会長
こんなときでも、「何とかなる」の思いはつぶれない。相手の銀行へ「この業務は、あなたの銀行も遠からずやることになる。要員を引き取ればメリットは大きい」と粘り強く交渉し、8人の転籍が決まる。あとの数人は「実家へ戻って親の世話をしなければいけない」「結婚するからもういい」「ゴルフ場への再就職が決まった」となり、解決できた。 辞めた部下も含めて、何とか81人の行く先が決まった。残る2人は60代で、社会保険庁を退職して拓銀の年金相談員となっていた。でも、転出先の銀行は「1人しか要らない」と譲らない。年長の1人が「私はいいですから、あの人を優先して下さい。奥さんが病気で大変だから。自分はアルバイトがみつかるので」と、言ってくれた。 1954年9月、池田町の北西に隣接する士幌村で生まれ、父母と姉2人、妹1人の6人家族。2歳のころに池田町へ転居し、小学校のときから何かにつけて「町長の息子が」と言われて、居づらい時期を過ごす。 函館ラ・サール高校時代に弁護士か政治家になろうと思い、大学受験で1年浪人した後、慶応大学法学部の政治学科へ。ゼミは政治学科でも選択できた法律学科の民法を選び、判例をもとに賛否の理屈を考えた。 ■競走馬について学び地域振興に馬産業へ融資を実現する 79年4月に札幌市に本店を置く拓銀へ入行。弁護士になるよりも国際金融マンになりたくなり、北海道経済に役立っている銀行を選んだ。市内の光星支店へ配属され、窓口係など銀行の基本業務を経験した後、企業担当になった。支店の重要な取引先70社を任され、計4年いた。 海外研修生の試験に通り、83年から1年間、ニューヨーク支店で過ごす。帰国して国際業務も経験し、国際金融マンへ近づいたが、次の職場は市中央部の札幌南支店。面識もないところへ、飛び込み営業を重ねる。 思い出深いのが、馬産業への融資だ。調教師らが共同馬主の組織をつくり、競走馬を買って競馬へ出す案件だ。サラブレッドの取引価格は高く、融資額も大きいから、本部融資部を納得させなければならない。地域振興の役に立ち、将来性もあるという理論武装をするため、競走馬のことを一から勉強し、調教師や騎手に話も聞いた。