故郷の丘からの風景がくれた「何とかなる」の思い セコマ・丸谷智保会長
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年11月25日号より。 【写真】この記事の写真をもっと見る * * * 1997年11月、18年余り勤めた北海道拓殖銀行の経営が、破綻した。80年代後半に日本経済のバブルが膨張したとき、拓銀は出遅れて焦り、甘い審査で融資を積み増した。バブルが弾けると、貸金を回収できず、終わりを迎える。 業務は北海道内とそれ以外に分けて、二つの銀行へ引き継がれた。仕事とともに引き継ぐ銀行へ移る仲間もいたが、新たな職を目指して去った人もいる。経営戦略を担う営業企画部の次長で、部下が83人いた。何よりも、彼・彼女たちの再就職先の確保を優先する。 できれば全員を、業務を引き継ぐ銀行へ仕事とともに送りたい。でも、先方の同じ部署に十分な人数がいたり、システム化が進んでなく人が要らなかったりで、なかなかまとまらない。 十勝地方の故郷・池田町の丘の上からみる風景は、田畑や牧場が地平線まで広がるなかに、家や家畜小屋などが、ぽつん、ぽつん、と点在していた。天気のいい日に北西をみると、十勝連峰の山々が美しい。その風景が、とても好きだった。 「何があっても、何とかなる」 そんな思いが、風景から、与えられる。83人の部下たちの新しい職を確保し切れないとき、この風景が目に浮かぶ。前向きな気持ちをくれるその風景が、丸谷智保さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。 父・金保さんは、特産品もない農村でヤマブドウに着目、品種改良で甘くして「町おこし」につなげたい、と考えた。だが、東京へいって専門家に調べてもらうと、そのヤマブドウは日本にはないとされていたワインに適する品種だった。「では、ワインだ」となり、60年ごろから「ワインの里」を育てる。 ■父が特産品に考えた町のヤマブドウはワインに適していた 育成は、町が主導した。資金が乏しい農家のためにブドウ畑を拓き、栽培に貸し、町が免許を取って醸造所もつくり、できたワインは買い上げて販路へ出す。キーワードは「共同体」。この「故郷のため、北海道の人たちのために」との思いを、父から受け継いでいた。 83人の部下のうち十数人は、企業と銀行のシステムをつないで金融業務をする部門にいた。企業からの「端末機をどう操作すればいいのか」といった照会に、対応する女性たちだ。多くが独身で、小さなアパートに住み、職を失えば明日からの生活も成り立たない。でも、送り込みたい先は同種の業務をしていないので、転籍を断ってきた。