水川あさみ、櫻井翔、玉山鉄二出演「笑うマトリョーシカ」あまりに違う構成にびっくり! 原作は時系列、ドラマは過去を回想で 展開の速さや疾走感に納得も削ぎ落とされた魅力をぜひ原作で!
■小説とドラマ、構成の違いで変わる印象
もうひとり、原作とキャラクターが微妙に違う人物がいるのだが、それは後述。まず、高校、大学、政治家になってからとほぼ時系列で語られる原作と、現在に始まって過去が挟まれるドラマという構成の違いによって、受ける印象がかなり違うと言っておかねばならない。 高校時代の清家、鈴木、そしてもうひとりの仲間・佐々木光一(ドラマでは成人後を渡辺大が演じている)の物語は、まさにエリート高校生たちの青春小説! といった感じ。純粋すぎる清家。そんな清家に光るものを感じて自分が彼を生徒会長にしてやろうと考える鈴木。ムードメーカーで豪放磊落な佐々木。三人の出会いや、そこからの関係の変化など、頭の良い男子が策略を練って目標を実現させていく様子はワクワクするやらゾクゾクするやら可愛いやら。 だがここに、ちょっと不気味な要素が入ってくる。清家一郎の造形だ。高校生の男子にしては幼すぎるし、素直すぎる。鈴木に全幅の信頼を寄せ、鈴木の言うことに疑問を持たずにすべて受け入れ、鈴木の思い通りに行動する。大学時代には恋人ができるが、その恋人も言いなりになる清家に支配欲を煽られる。すべてを鈴木がコントロールするその関係は清家が政治家になってからも続くのだが、なぜこんな、まるで自我を持たないような青年が出来上がってしまったのか? それこそが物語の鍵だ。その上で、本当に清家を支配しているのは誰なのかに迫るのが原作なのである。 ところがドラマではこの過去編をぶつ切りにして回想という形にするので、清家の異質さも、鈴木の賢さも、視聴者の中に積み上がらない。逆に、回想の断片が、「今、何が起きているのか。その発端はどこにあるのか」のヒントが後出しで出てくるように作られている。 たとえば、キーパーソンである清家の母親・浩子は原作では第1部から思わせぶりに出てくるが、ドラマで高岡早紀演じる浩子が大きく扱われるのは第4話からだ。彼女の存在を知っているか知らないかで、エピソードの解釈は大きく変わる。伏線が多く仕込まれた過去を先に見せてしまうか、後から断片的に見せるか。物語の構成要素は同じなのに提示する順序を変えるだけで、読者(視聴者)はまったく異なるアプローチで物語を味わうことができる。小説とドラマ、どっちが先でも新鮮に楽しめるぞ。