NHK大河ドラマでは描かれない…紫式部の死後に宮廷の貴公子たちと次々と浮名を流した娘・賢子の意外な大出世
紫式部はいつ亡くなったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「没年に関してはさまざまな説がありはっきりしない。一方で、娘の賢子については80歳前後までの生存が確認されている」という――。 【写真】鳥文斎 栄之・葛飾北斎画 『錦摺女三十六歌仙』より大弐三位(藤原賢子) ■紫式部の生没年について史実としてわかっていること 旅に出て、夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)のかつての赴任地である大宰府を訪れ、さらに友人だったさわ(野村麻純)が亡くなった地だという松浦(長崎県松浦市)向かっていたまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)。そこに、壱岐や対馬を襲ったのちに、北九州に上陸した異賊である刀伊(とい)が襲いかかった。 刀伊とは主として、中国大陸でのちに「金」や「清」を建国する女真族だったと考えられている。 父の為時(岸谷五朗)の赴任に同行した越前(福井県北部)で知り合い、大宰府で再会した周明(松下洸平)がまひろに同行していたが、刀伊の弓に倒れてしまう。泣き叫ぶまひろだったが、従者の乙丸(矢部太郎)が彼女を必死で連れ去った。そして大宰府に戻ってきたが、刀伊を撃退した大宰権帥の藤原隆家(竜星涼)の前で、「周明と一緒に私も死んでおればよかったのです」と、泣き続けるのだった。 だが、NHK大河ドラマ「光る君へ」の第47回「哀しくとも」(12月8日放送)で、このように描かれたまひろの登場シーンは、すべてが創作である。刀伊の入寇が起きたのは寛仁3年(1019)3月から4月にかけてのことだが、このころ紫式部がなにをしていたかは、まったくわかっていない。それどころか、生きていたのかどうかさえたしかではない。 紫式部を主人公にする以上、史実としてわかっていることが限られ、生没年も確定していないので、創作は必須である。いかに本当らしく創作できるかが脚本家の腕の見せどころだが、書き遺したものから察するに斜に構えたひねくれものとおぼしき紫式部が、感情をあらわにして泣き叫んだりして、青臭すぎる気もするのだが……。