「ワンオペの限界…好きな教師の職だけど辞めよう」平野真理子の決断が娘・美宇の「卓球の道」へとつながった運命
■「向き合って寄り添う」特別支援学校は天職だった ── 大学卒業後はどんな進路を選びましたか? 真理子さん:静岡県の中学校体育教諭に採用され、初任のときに研修交流として特別支援学校に配属されました。天職かと思うくらい大好きな仕事でした。特別支援学校では、重度障害があるお子さんの担任となりマンツーマンで向き合いました。ご家族とも連携を取っていくため、深いつながりを感じられました。こうした関係を築くのは私の夢でした。
もともと小学校の先生になりたかったのは、生徒と「深い心のつき合い」をしたかったから。ただ勉強を教えるだけではなく、一人ひとりに寄り添い、心の成長の手助けをするのが理想でした。特別支援学校では生徒ときちんと向き合うことができて、イメージしていたような関係を築けて、当時は本当に楽しかったです。 3年間、特別支援学校で働いたあとは中学校の支援学級の教諭として勤務し、その後、小学校教諭となりました。幼いころからの夢だった小学校の先生は毎日めまぐるしくて大変でしたが、やりがいがありました。子どもたちとは「心のふれ合い」なんて美しいひと言では語れない「心と心のぶつかり合い」の毎日でした。当時の教え子や同僚の先生、特別支援学校の生徒や保護者の方たちとは、いまでも連絡を取り合っているんですよ。
■仕事と家事や育児「圧倒的に時間がたりなかった」 ── 平野美宇選手が卓球を習ったという、卓球教室を開いたのはいつごろでしょうか? 真理子さん:結婚し、美宇が生まれてからも学校教諭を続けていました。でも、子育てと仕事を両立するのは圧倒的に時間がたりないんです。美宇を預けていた保育園は18時まででしたが、私はいつも最後にお迎え。美宇はひとりで私を待っていました。「遅くなってごめんね」と、謝りながら美宇を抱っこし、そのまま受け持つ生徒の家庭訪問に行くこともありました。帰宅してからもバタバタしながら食事、入浴、就寝とタスクをこなす状態で…。