23歳で早世した京大院生・山口雄也さん 自らドナーとなって支えた母親の無念と感謝
大学1年の時、希少がんが発覚
雄也さんは1997年10月18日、京都市に生まれた。「本人がやりたいと思うことは、できるだけやらせてみる」という両親の考えのもと、3歳からピアノ、小学3年生から陸上を始めた。休日に家族で出かけることも多く、京都府職員の睦雅さんが整備に関わった港などを見て、「将来、父のように地図に残せる仕事をしたい」と語っていた。
高校3年生の夏まで陸上を続け、その後半年間は猛勉強。第1志望の京都大学工学部に現役合格した。 2016年4月に入学してからは学業、アルバイト、旅行と充実した学生生活を送っていたが、秋に最初の試練が訪れる。風邪をこじらせて肺炎になり、病院で精密検査を受けると、数十万人にひとりが患う縦隔胚細胞腫瘍という希少がんが見つかったのだ。5年生存率は40~50%だという。 当時、雄也さんと一緒に七美さんも医師から説明を受けた。 「まだ19歳の雄也に対するがんの告知がとても残酷で、体が震えました。隣に座る雄也を見ると、まっすぐ前を見据えて医師の言葉を聞いていました。その姿を見て、『一番つらいのは本人なのに、受け止めて闘おうとしている。私が悲しんでいる場合ではない』と思いました」 そのとき、七美さんが心に決めたことがある。入院中は毎日面会に行く、病人扱いせずに普段通りに接する、ということだった。睦雅さんも同意し、見舞いのときはお互いが好きな阪神タイガースや車の話をした。
がん切除で復帰も、白血病が発覚
がんの告知から8日後の2016年12月8日、雄也さんは京大病院に入院し、ブログ「或る闘病記」を始めた。抗がん剤治療がスタートすることを紹介しつつ、最後は「明日も生きよう。俺は負けない」と締めた。 翌年3月に10時間を超える手術でがんを切除。その後大学に復帰したが、3年生になった18年6月に今度は「急性リンパ性白血病」と診断された。
急性リンパ性白血病は、リンパ系の未分化な細胞ががん化して骨髄の中で増え、正常な白血球や赤血球、血小板を作ることができなくなる病気だ。雄也さんは診断後そのまま入院することになり、七美さんは慌てて駆け付けた。 処置室のベッドに横たわり、悲しそうに「もうアカンわ」と繰り返す雄也さん。最初にがんの告知を受けたときの気丈な姿とは大きく違い、七美さんもショックを受けた。 「『なぜ、またこんなことに……』と泣き叫びたい気持ちを抑え、静かに雄也の横に座りました。少しずつ落ち着こうとしている様子を見守りながら、『体調不良の原因がわかってよかったね。きちんと治療したら治るから大丈夫』と声をかけました」 雄也さんは、白血病の告知から4日後のブログ「ヨシナシゴトの捌け口」に、「これはもう、本当に死ぬんだ」と綴っていた。 その後、骨髄バンクで適合するドナーが見つかり、21歳の誕生日前日の10月17日 に移植を受けた。いったん回復して退院するも、移植された健全なドナーの細胞割合がだんだん減っていった。