疲れた時に「してはいけないこと」。不調をチャンスとみなすカラダの整え方
「疲労」と「疲労感」はちがう
忙しい日々のなかで、「経験を温めて孵化させる時間」を確保するには、どうすればいいだろう。鍵を握るのが、「疲れ」や「不調」との付き合い方だ。 効率とスピードを求める能力社会においては、「疲れ」はいつも邪魔モノ扱いされてしまう。けれど、私たちが疲れるのにはちゃんと理由がある。疲れとは、過剰な活動を察知して知らせてくれる「体のアラーム機能」なのだ。 重要なのは、「疲労」と「疲労感」のちがいを認識すること。そう強調するのは、生理的疲労のメカニズムを長年研究する近藤一博氏(東京慈恵会医科大学教授)の近著『疲労とはなにか ─すべてはウイルスが知っていた』だ。 同著によると、「疲労感」とはストレス応答(ISR)によって生み出された炎症性サイトカインという物質が脳に伝わって生じる「感覚」のこと。 これに対して、「疲労」とはストレス応答を引き起こすeIF2αという因子がリン酸化することでおこる、「細胞の停止や細胞死」のこと。 つまり疲労感とは「感覚」であり、疲労とは実際に細胞が活動停止に追い込まれている「現象」のことだ。 エナジードリンクや疲労回復効果のあるといわれる食物は、おしなべて「疲労感の減少」に貢献するもの。「疲労」そのものは減少していないのに、一時的に脳をだまして「疲れていない」と思わせてしまうことにもつながる。この状態が長く続くと、体の疲労回復機能が追いつかなくなって命を危険にさらしかねない。疲労感は、体が必死に送ってきている大事な「一旦停止」のサインだと心得たい。
「治す」と「治る」はちがう
なぜ私たちは、疲れや不調をあわてて押さえ込もうとしてしまうのだろう。その背後には、「病は治すもの」という価値観が深く根を張っている。 東京大学医学部医学科を卒業後、心臓の専門医として医療現場に従事した稲葉俊郎氏は、『いのちを呼びさますもの ─ひとのこころとからだ』で「治す」と「治る」の違いについて語っている。 「治す」は、西洋医学が重きをおく考え方だ。不調の因果関係が明確で、原因を取り除く治療ができる場合にはこれが有効だ。けれど、「治す」という考え方に偏重すると、病は敵であり体は戦場である、という見方に偏ってしまう。そうなると、病が訴えていることに十分に耳を傾けることができなくなる。 これに対して「治る」という考え方は、誰もがもつ自然治癒力がその力を発揮できるように、環境を整えようという発想をもたらす。不調の原因が明らかでないときには、治療者が寄り添いながら、患者自身の「治る」力が呼びさまされるのを気長に待つ。 この場合の「環境」づくりには、医療だけでなく芸術や文化も大きく関与しうるのではないかと、稲葉さんは考えている。 西洋医学の専門家がアートに注目するのは意外にも感じられるけれど、「治る」エネルギーは外部から与えられるものではなく自身の内部から生じることだからこそ、何かに心動かされることの力は侮れない。