東京からは見えてこない「なぜ維新は大阪で絶大な支持を得ているのか」
玉川徹、西野亮廣、ガーシー、吉村洋文、山本太郎――時に大衆を熱狂させ、時に炎上の的になるメディアの寵児たちから、なぜ目が離せないのか? 【写真】日本社会で幼稚な主張が「正論」だと人気を集めている深刻実態 注目の新刊『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』では、彼らは何者なのか、その単純かつ幼稚な「正論」がもてはやされる日本社会の問題に迫る。 (本記事は、石戸諭『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』から抜粋・再編集したものです)
目立たない弁護士
吉村は1975年、大阪府南部に位置する河内長野市のサラリーマン一家の家庭に生まれた。勉強がよくできるタイプだったようで、地域の名門・府立生野高校を卒業した吉村は、九州大学に進学し、23歳で司法試験を突破する。 弁護士時代に目立った仕事は二つだ。第1に、当時勤務していた東京の熊谷綜合法律事務所で、消費者金融大手「武富士」の顧問弁護士団に加わり、批判するメディア相手の訴訟まで担当していたこと。この"実績"は2度目の住民投票から今に至るまで批判材料になっている。当時を知る弁護士──それも武富士と対峙していた弁護士と、武富士側で同じような訴訟を手掛けていた弁護士──に聞いてみたが、いずれも拍子抜けするほど何も出てこなかった。彼らが口を揃えたのは私が取材で尋ねるまで吉村が関わっていたことなど全く知らなかったこと、そして弁護団の一人にはいたかもしれないが記憶には全く残っていないというものだった。 第2に独立後、大阪を代表する大物芸能人にして、当時、維新を率いていた橋下徹とも深い親交があったことで知られる、大物タレントの故やしきたかじんの顧問弁護士だったことだ。これが人生の転機となった。2010年4月に結成された大阪維新の会は、翌年の統一地方選に挑むための候補者を探していた。橋下に対し、やしきがつよく推薦したのが吉村だ。タレントとして大阪各局でレギュラー番組を持っていたやしきは、最晩年には政治にも発言を繰り返し、強い影響力を持つ保守系文化人という色を強めていた。橋下はやしきの提案を受け入れ、吉村もまた推薦に応じることによって政治家への道を歩みはじめる。その時、誰もが吉村が維新を支える存在になるとは思いもしなかっただろうが、最初の一歩は維新らしい選挙戦だった。 維新の選挙戦には二つの顔がある。支持基盤の大阪と、第三極の野党として追う立場にある他の都市部の違いだ。なぜ大阪において確固たる支持を確立したのか。それは橋下とともに維新を立ち上げた二人、前大阪市長・松井一郎と、盟友の元大阪府議・浅田均、三人の出会いから描き出す必要がある。