「野球やってる場合か」葛藤越え<がんばろうKOBE>でファンとひとつに…オリックス・バファローズ元球団職員・池見裕弘さん
阪神大震災30年へ
阪神大震災が起きた1995年、プロ野球のパ・リーグを制したのは神戸市を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブ(現・バファローズ)だった。当時、球団職員として支えた池見裕弘さん(68)は「チームも被災者だった」と振り返り、被災地のスポーツチームにとって「『共に立ち上がる』という姿が大事」と強調する。復興へ動き出す中、自身も関わったキャッチフレーズ「がんばろうKOBE」が街との一体感を強めていった。 【画像】本拠地で地元ファンに優勝を報告し、グラウンドを1周するオリックスの選手ら(1995年) あの日、神戸市須磨区の自宅マンション4階で、大きな揺れに見舞われた。妻と長男にけがはなく、外へ避難した。
「下から『ドーン』と突き上げられるように体が浮いた。次第に(神戸市長田区の火災で)空が赤くなっていった。ただごとじゃないと思った」
その日のうちに元町(中央区)の球団事務所へ車で向かった。道路はめくれ、縦にうねっていた。長田の街は燃え、刺激臭が鼻をつく。到着して職員と連絡を取り、水道と電気が使えるとわかった選手寮「青濤(せいとう)館」(西区)へ移り、安否確認を行った。自宅が全壊した選手も複数いた。
「具体的な被害がわかってくると、私だけじゃなく、みんなが『野球ができるのか。やってる場合か』と思った」
それでも、営業担当だったため、後に球場長を務める本拠地グリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸、須磨区)の代替球場をすぐに探し始めた。その最中、宮内義彦オーナー(当時)から球団に電話が入った。「お客さんが一人も来なくても神戸で(試合を)やる」という方針が示された。
「複雑だったが、『こんな時だからこそ、神戸で頑張っている姿を見せるんだ』という(オーナーの)明確な意志があったので、逆に頑張ろうと。だが、簡単に割り切れない。避難所から来る職員もいる。葛藤はあった」
感情の折り合いがつけられないまま、開幕への準備を進めた。1月下旬、球団幹部から被災地を励ますキャッチフレーズを検討するよう指示があった。球団内で議論し、「がんばろうKOBE」が生まれた。
「これができて、いつまでも後ろ向きなことを考えていられない。前向きになっていかなければ、と思った」
3月4日、本拠地でのオープン戦には約1万人が来場した。
「着の身着のまま避難所から来たという感じの人を見て、本当によかったと葛藤が消えた。こういう状況でもオリックスを、野球を楽しみとしている人が確実にいる。この人たちのためにやらなければと感じた」
キャッチフレーズは復興への合言葉となり、チームはワッペンにしてユニホームの袖につけた。シーズンは4月に開幕。本拠地での試合前、仰木彬監督(2005年死去)は練習中に、よく外野を歩いていたという。
「監督に呼ばれて、一緒に歩くことが多かった。『こういう時に観客が来てくれるのは、ありがたい』『不格好な試合はできへんな』と口にされていた」
車の運転中、地震に遭った主力打者は考え方が変わった。
「『ひょっとしたら死んでたかもしれん。人間いつどうなるかわからん。頑張れる時に頑張らんと。いつまでも先があると思ったらいかん』と話していた。(給水の)バケツリレーで肘を痛めた投手もいたが、踏ん張っていた」
イチロー、田口壮両選手らを擁するチームは6月から首位を快走。7月22日、優勝へのマジックナンバー「43」が点灯した。数が減るにつれ、「勝ってくれてありがとう」「勇気づけられた」と話すファンが増え、9月19日、リーグ制覇を果たした。