もっと考察『光る君へ』「なぜ『道綱の母』なの?歴史に残る人物なのに名前がわからないって!」平安初心者の夫に「名前の感覚」について語ってみた(特別編2)
女性の名は特に秘密
車はゆるゆると進み、車窓からは目にも鮮やかな緑の山並が見えていた。 景色をじっくり眺められるのはいいが、居眠り運転を起こしては大変。眠気覚ましに、こういう話はちょうどよい。 「もともと日本には、古代から男女ともに本当の名前を家族以外には教えない風習があって」 「そういうのは、他の国の例もなんとなく聞いたことがあるな。本当の名は明かさない……エジプト神話とか」 「呪術的な考えなのかもね。その延長線上で、女性の名を知るのは家族と夫となる男性だけ、名を問うのは求婚の意味を持つようになったと。 『万葉集』の、 籠もよみ籠持ち堀串もよみ堀串持ちこの丘に菜摘ます児家聞かな名告らさね… (美しい籠を持ち美しい堀串を手にして、この丘で菜摘みをしている娘よ。あなたはどこの家の娘なのだ。名を教えておくれ…) これは求婚の歌なのよね」 「まあ今でも、苗字じゃなくて下の名前を聞いて、それで呼ぶのは結構踏み込んだ感じがするものな」 「確かに。で、そんなこんなで女性の名は特に秘密とされるものになっていった、と。いわゆる下の名前を『諱(いみな)』というんだけど、男性に対しても諱を直接呼ぶのを避ける風習は長く続くのね。大河ドラマは観ている人が混乱しないように『道長』とか『実資』とか諱で呼んでるけど、でも公的なシーンでは『大納言殿』『頭中将殿』などの官職で呼び合ってる筈。実資、行成の日記『小右記』『権記』でも『左府(左大臣)はこのように指示した』などの官職で記してるし」 「ロバート秋山が初登場で『右大臣様(兼家)の仰せになったことは正しかった。好きではないがな!』と言うセリフはインパクトあったな」 「2話だね」 「すぐ出てくるのこわい」
勤務経験がないから
渋滞がなかなか解消しないので、途中小さなサービスエリアに入った。車を停め、コーヒー自販機で熱いコーヒーを買う。ロボットが淹れてくれる様子をライブカメラで眺めながら、 「女房として勤めた女性たちは、夫や父親の家の名と官職をセットにしたビジネスネームで呼ばれていたパターンが多いのね。ドラマの15話では中宮・定子(高畑充希)がききょうと初めて対面したときに「今日からそなたを清少納言と呼ぼう」という場面があったけれども。清少納言は父と夫が少納言ではないので呼び名の由来が謎であったところ、今回の大河では『父とも夫とも関係のない、彼女独自の名前を中宮から賜った』という描き方をしたわけで……。他にも例えば、赤染衛門(鳳稀かなめ)は父の赤染時用(あかぞめのときもち)が右衛門府(えもんふ)の役人だったことから、そう呼ばれたのだそうで」 「となると、藤原道綱母は勤務経験がないから『道綱くんのお母さん』としか残らなかった?」 「まあ、そういうことになるね…….」 飲み物のできあがりを知らせるピーピー音で紙コップを取り出しながら頷いた。 「切ない。僕は切ないよ! 1000年経っても読み継がれる作品の作者なのに、誰かのお母さんというだけの名しか残ってないとは」 「逆に私は『ふじわらのみちつなのはは』を固有名詞として捉えてて、道綱の存在が頭から消えてましたわ。あなたのその視点が新鮮」 もう一杯、自販機にホットコーヒーを作ってもらい、話しながら待つ。 夫がため息混じりに言った。 「百人一首で道綱母の名前も『嘆きつつ….…』も知っているのに、今まで全く気にならなかったな。大河ドラマで財前直見が演じたから、この人の名前が不明だってことにショックを受けたのかも」 「歴史上の人物を生きた人間として意識させる。これぞ大河ドラマの効果!って感じで、私は誇らしいけどね」 胸を張る私に、 「なぜ鼻息荒くする、君が大河ドラマ作ってるわけでもあるまいに」 夫は呆れ顔である。 「ふはは、すまんね。ファンとして、つい」 できあがりのピーピー音に促されて、熱いコーヒーが入った紙コップを手に車に戻り、また渋滞の列に入ってゆく。車はじわりと流れてはまた止まり……という動きを繰り返すので、眠くならないよう私たちは喋り続けた。
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