「今日は円谷君のために走ろう」…メキシコ五輪・マラソン銀メダリスト「君原健二さん」が明かした「あの日、なぜ後ろを振り返ったか」
「それが国民に対する約束だから」
8位でゴールインした君原は、競技役員に支えられて控室のベッドに横たわった。少しして回復し周囲を見渡すと、「疲れ果て、打ちひしがれ、なんて悲しそうな顔をしているのだろう」と思える円谷の姿が目に入った。途中棄権したのだろうかと早合点した君原は、円谷に声をかけられなかった。目が合った円谷も、ひと言も発しない。 その円谷はレース直後の記者会見で早々と、「(次の)メキシコを目指して4年間頑張ります」と雪辱を誓う言葉を語っている。同じ言葉を、それから2年半後の1967年5月に、広島県で開催された全日本実業団対抗選手権での控室で君原にこうもらしている。 「来年のメキシコオリンピックで、もう一度メダルを獲るんだ、日の丸を掲げる。それが国民に対する約束だから」 いったい国民の誰が、円谷にそこまで追い求めさせ、約束させたというのだろうか。円谷と同世代だった君原は、円谷にライバル意識を持ったことはないという。 「彼に勝ちたいとかライバルだという意識ではなく、同じ目標に向かって苦楽を共にした、かけがえのない同級生という思いでした。一緒に精一杯走ろうよと、そういう気持ちでいたのは円谷君も同じだったと思います。円谷君のいう『国民に対する約束』? 国を守る自衛隊員だった円谷君と民間企業に勤める私との違いというのもあるでしょうけど、私にはそんなものはないです。彼は風呂に入るときに脱いだ下着をきちんとたたむような几帳面で本当に生真面目な性格。強すぎるほどの責任感を持つ男でした。だから東京の大観衆の前で抜かれたことが、彼には言いようのない恥辱だと感じていたのでしょう。その雪辱を『国民に対する約束』にしてしまったのではないですか」
「何と可哀想な英雄だろう」
広島の全日本実業団対抗選手権では、君原と円谷は2万メートルに出場した。これが二人そろって一緒に走った最後のレースとなり、最後の顔合わせでもあった。 そしてその8ヵ月後に、「父上様 母上様 三日とろろ美味しうございました」「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の遺書を残して、円谷は自衛隊の宿舎内で右頸動脈を剃刀で掻き切って自死した。27歳の若さだった。 円谷自殺の一報をマスコミから聞かされた君原は、翌日の日記に、こう記している。 「円谷君自殺 何と可哀想な英雄だろう 世間の人々は誰一人として あの素晴らしい誉の使い方を教えてやらなかった 彼は名誉に押しつぶされたのだ(中略)いかにオリンピックの 民族の代表といえども個人だ 民族の期待に答えようが答えまいがどうでもよいのだ 自分が競争したいから 選ばれたのだから 勝手に競争すればよいのだ(中略)東京オリンピックをともに経験した俺は彼の気持ちがよく解る気がする 先ほどふと思い付いたのだが もし俺がオリンピックで3位に入賞していたのなら俺がやっただろうと思って恐怖した」(原文ママ) 君原はメキシコ五輪でスタートラインに立った時、その脳裏に、「このレースを本当に走りたかったのは円谷君だから、今日は円谷君のために走ろう」との思いがよぎったという。 だが、走り始めてからは円谷のことを思い浮かべることは全くなかった。 「だからゴールが近づいたとき、なぜ振り向いて後ろをチェックしたのか、まるで4年前の円谷君からのインスピレーションがそうさせたのか、あるいは円谷君の教訓が私に伝わってきたものなのか――。レースが終わってからですが、そんな思いが浮かんできました。私はきっと円谷君から支援されていたんだなと、なぜかそんな気がするのです」(敬称略)