3カ月で30人退職…埼玉秩父の製造会社が「暗黒期」から脱却できた「独特な人材戦略」
独自「人材戦略」の中身、カギは「余白」?
問題解決に向けて、松本氏は心理学や働き方改革に関する書籍を読み漁り、社員のウェルビーイングを重視した企業運営を模索するようになる。「表面上だけの働き方改革では意味がありません。人間は『もっと自分や他人のことを大切にしてほしい』という欲求があり、これを満たすような改革をしていきたかったのです」と松本氏は語る。 そこで注目したのが「心理的安全性」の確保である。心理的安全性とは、社員が「ここにいてもいい」と感じられ、組織の中で自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態を指す。 松本氏は、まず自らが正直にコミュニケーションを取ることを心掛け、社員一人ひとりの個性を尊重する姿勢を徹底した。松本氏は「押さえつけたり、頭ごなしに否定することを決して行ってはいけません」と語る。 さらには、各々の個性にあった接し方を心掛けるため、全社員に対して心理学に基づく性格診断を行った。「全員の性格のデータが頭の中に入っています」と松本氏は言う。 そのほかにも会議の際には、議題に入る前に必ず20分ほど世間話をする時間を設けるようにした。この一見無駄とも思える時間が、「社員同士の心理的な『余白』を生み出して、結果的に会議の効率を高める効果があります」(松本氏)。 社員同士がリラックスしてコミュニケーションを取ることで、発言への恐怖感が和らぎ、自由な発想や意見交換が活発化していった。社員たちは自己防衛に走ることなく、問題に対して集中して取り組む姿勢を持てるようになったのだ。 こうした意識的な動きもあって、次第に社内の雰囲気は好転していく。心理的安全性の確保は、社内の雰囲気を良くするだけでなく、生産性向上にもつながる重要な要素となっているのだ。
「会計知識」の独自教育、売上総利益率「4ポイント改善」
次に、松本氏が注力したのは社員の経営理解を深めることだ。 松本興産では、以前から材料を過剰に仕入れたり、在庫が増えたり、売上は上がったのに利益率が低くなったりするという課題があった。さらに、部署ごとの考え方にも違いが見られ、社員は自分の仕事を優先しがちであったため、会社全体として足並みをそろえることができていなかった。そこで松本氏は、全社員に会計の知識を身に付けさせることを思いつく。 「会計の知識があれば決算書が読めるようになり、各部署が会社の利益を上げるために何をすべきか、共通の理解を持つことができると考えました。社員が経営者と同じ目線を持てば、話も通じやすくなると期待しました」(松本氏) しかし、既存のテキストを使って勉強させるといった従来の一方的な教え方では、「理解も深まりませんし、長くも続けられないのでは」と考えた松本氏は、「風船会計」という新しいメソッドを考案した。これは売上を風船に、賃借対照表を豚の貯金箱にたとえるなど、会計の数字を視覚的に表現したもので、数字が苦手な社員でも理解しやすいように工夫した手法である。 特に、風船や豚の貯金箱というビジュアルで伝えることで、記憶力や状況把握に優れている右脳を働かせる狙いもある。会計帳簿にあるような数字を読んでいる左脳と併せて、脳をフル回転させることで、より理解を深めることができる。また、数字をベースにすると身構えてしまう人が多いため、ビジュアルを使うことで心理的安全性を担保する効果もある。 そしてこの風船会計を教えるため、毎週「めぐみ塾」という勉強会を開いた。そして教え方にも工夫を凝らした。 「スライドを使う代わりにおもちゃや小道具を用いて、教えるようにしました。あえて『なんじゃこりゃ?』と思わせるようにすることで、社員の興味を引けないかなと(笑)」 これは松本氏が子育てから得たアイデアで、大人も子どもも興味が湧けば積極的に取り組むという考えに基づいている。 さらに、学習を継続させるための工夫として、会計の知識が身に付いた社員には、他社の決算書を見せて、みんなで分析することにした。「他社の決算書を通じてその会社の経営状態や社長の考え方までが見えるようになり、社員も面白がって学んでくれています」。 同時に自社の業績も積極的に公開。業績が悪いときでも、経営層だけで問題を抱え込むのではなく、社員全員と共有することで、会社全体で改善に取り組む姿勢を強化するためだ。 風船会計の導入により、現在では多くの社員が会計の知識を習得している。その結果、各現場でも材料の仕入れや在庫などから利益率を考えるようになり、売上総利益率は18.5%から22.6%へと、4ポイント以上もの増加を実現した。