ビジネスに役に立つかわからない「アートにかぶれる上司」に困惑 美的感覚は超一級でもビジネスリーダーとしてはどうなの?
組織のトップとしては無能でも文化人としては超一流
この人は東山文化を確立した超一流の文化人ですが、リーダーとしてはあの「応仁の乱」をまるっと放置。誰が見ても無能と断定されてきた人物です。 ある年代より上の人にとって「足利将軍」といえば、アニメ「一休さん」に出てきた将軍が思い浮かぶのではないでしょうか。筆者もまずあの将軍さまが思い浮かびます。 その人は第3代将軍の足利義満。足利将軍の権力がピークに達したときのリーダーで、明と国交を結び「日本国王」として承認されたことでも知られる人です。 義満は人間性はともかく(どうも意地悪なところが感じられる)、貴族的な教養を身につけ芸術的センスにも秀でていた。 彼が建立したのは金閣寺。ご存じの通り金張りの豪華なお寺で、この金閣寺がアイコンとなっている文化が北山文化です。 こちらは外国からの影響が色濃い、絢爛豪華たるキラキラゴージャスなカルチャーで、現代でいえば港区系の、アッパーな世界でしょうか。
義政はその義満の孫。彼が確立した東山文化は、対照的に「わびさび幽玄」の世界。 銀閣寺の外観は木造そのままですが、あれは歴史を経るうちに銀が剥げてしまったわけではなく、もともとあのように地味だが渋い外観に造られたものでした。 茶の湯は、この銀閣寺で義政が実践したところからはじまったそうです。彼は造形美術だけではなく演劇や文芸にも通じており、日本文化研究の第一人者、ドナルド・キーンさんはこの義政について、 究極的に日本人の美意識の独自な性格を形成するにあたって重要な役割を果たした。(『足利義政 日本美の発見』) と評していました。要するに義政の趣味が、日本人のライフスタイルの源流となった。そういう人です。
「応仁の乱」の思わぬ作用
ところが、それほどの芸術的センスを持ちながら、組織のトップとしてはまるでダメ。そもそも京都の街が灰燼に帰してしまった「応仁の乱」も、この人の後継者問題が契機となって起こりました。 義政の妻は日野富子。今でいうところの旺盛なアニマルスピリットの持ち主として知られ、京都の出入り口に関所を設けて通行税を取り、そのお金を大名に貸し付けてさらにもうけたという人物です。 「アートを学ぶより、よっぽどこの人の利殖マインドに学んだほうがいいのでは?」と感じさせられる人ですが、義政はこの奥さんとの間で、お子さんに恵まれなかった。 そこでお坊さんになっていた弟、義視(よしみ)を還俗させて後継者にしようとします。 しかし義視にしてみれば、「そんなこと言っても、兄さんに子どもができたら、俺は不要になるだろ?」と思うわけです。それはそうでしょう。当時義政ご夫妻はまだ20代でした。 それで義政は「俺に子どもができても後継者はおまえだ」と固く約束して義視を還俗させます。しかし案の定、実子、義尚を授かる。 義政は一応、義視との約束を守ろうとするのですが、そうなると大名たちも、そして家庭内も義視派、義尚派に分かれて揉めはじめるわけです。 「応仁の乱」の底流は複雑で、そこには幕府創設以来の火種があったにしろ、結局、守護大名たちが東軍の細川、西軍の山名の二派に分かれて戦乱がはじまってしまう。しかし義政は、京都の街で戦闘が起こり御殿の上空を煙が覆っても酒宴に興じていました。