使い込みで会社を2ヵ月で解雇→“あばずれ”と呼ばれた恋人とも破局→強盗殺人犯にまで落ちぶれた「慶應卒のイケメン元証券マンの末路」(1953年の事件)
そして死刑に
愛宕署に連行された後、正田は供述を変え自分が主犯であることを自供。強盗殺人罪で起訴され、1956年12月15日、東京地裁で死刑を宣告される(近藤は懲役10年、相川は懲役5年で、両者とも控訴せず確定)。その後、控訴、上告が棄却され1963年1月21日に死刑が確定する。 前科がなく、殺害人数も1人で死刑とは重すぎる量刑に感じるが、犯行自体の悪質性に加え、正田が被害者及びその遺族に対して一切の謝罪を行わなかったことが、検察官や裁判官らの心象を悪くしたことが影響したものとみられている。 確定死刑囚となって東京拘置所に収監された正田は獄中で小説を書くようになり、1963年に執筆した「サハラの水」が文芸誌『群像』の新人賞候補になるなど文才を発揮する。 また、死刑確定前から『福音』(キリスト教の聖典)に接し、カトリックの洗礼を受けた後は、罪を悔い改め模範囚として過ごした。
死ぬ前に犯人が残した「最期の言葉」
刑確定から6年11ヶ月後の1969年12月8日、正田に翌日の死刑執行が告げられる。当時は前日言い渡しが慣例で、正田は残された時間で家族やフランス人神父と面会するとともに、知人や友人に手紙を書き残した。以下は、裁判で弁護を担当した正木亮(1892-1971)に送った手紙の一節である。 〈これから、最後の夜を母のために過ごすつもりです。では先生、もういちど、さようなら〉 12月9日、絞首刑執行(享年40)。最期の言葉は「アーメン」だったという。
鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載)
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