なぜ日本で“空気を読めない人”は嫌われる? 背景にあった「自然災害と閉鎖的環境」
日本の社会は「空気を読む」ことがマナーとして重んじられています。個人の主張は抑え、集団の調和を大切にする文化は、どういった背景で生まれたのでしょうか。日本社会の集団主義と、その影響について、脳科学者の中野信子さんによる書籍『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』より解説します。 人間関係のトラブルの原因がわかる診断 ※本稿は、中野信子著『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
日本は「優秀な愚か者」の国
誤解を恐れずに言えば、日本人は摩擦を恐れるあまり自分の主張を控え、集団の和を乱すことを極力回避する傾向の強い人たちだと感じます。これをあえて自省的に弱点として考える視点で見れば、日本は「優秀な愚か者」の国ということになるでしょう。 日本では、集団の抱えているいろいろな不都合や問題点に気づいて、空気を読まずに指摘してしまう人が、しばしば冷遇されます。そのことを理不尽であると抗議して声を上げたなら、なおさら集団から圧力がかかり、最後は排除されてしまいます。 一方、現代の日本に代表されるような安定した社会で優秀と評価される人は、これもまた自省的にあえて強めの言い方をすれば、「何も考えずにいられる人」かもしれません。 集団のルールを守り、前例を踏襲し、集団の上位にいる人の教えや命令に忠実に従う、従順な人が重用される傾向は否めません。これは政府や企業に限らず、最高学府であるはずの大学でさえ例外ではありません。 日本国内において、東京大学は世界に通用する大学と思われているでしょうし、実際に学位取得者によるノーベル賞受賞者数は、国内で最も多くなっています。しかし、東大も京大も、他の国立大も、独創的な研究ができているかと問われたとき、自信を持って肯定できる人は限られているのではないかと危惧します。 また、個々の事情もあるのでしょうが、最先端の研究をしたいという前向きな理由で海外に出る人もいる一方で、とにかく息の詰まる日本の現状から抜け出したい、逃げ出したい、という人も大勢います。 私は中途半端な研究者でしたので日本に戻ってきましたが、本当に優秀な研究者──特に女性で優秀な研究者は、そのまま戻らないということが相当あるようです。大変残念なことですが、日本国内においては、独創的で自由な研究は、大規模になるほどやりにくい土壌があるのかもしれません。 反面、日本人研究者はイグノーベル賞(「人を笑わせ、そして考えさせる研究」に対して贈られる、ノーベル賞のパロディ)の常連です。これは、お金がかからず小規模でできる研究であれば、結果を出しやすいということを端的に示しているように思います。 チーム内での摩擦を回避するために、イノベーティブ(革新的)な発想力のある人がアイデアを大きな声で主張できず、才能を開花させることができないでいるのだとしたら、これは大変残念なことで、国家の損失だと多くの方が思うでしょう。 ここには日本の大きな特徴が隠れていると思うのです。 日本の研究機関では、例えば研究室という小さな組織のなかの秩序を守ることの方が、独創的な研究を行って業績を上げることよりも重要視される傾向が、海外よりも高いのかもしれません。 スタンドプレーはあまり歓迎されず、教授やリーダーの配下として尽くした研究者が優遇され、将来のポストに恵まれるのに対して、教授やリーダーよりも優れた研究を行えるような突出した研究者は業績を上げても人間関係で問題を抱えてしまうことが多く、どちらかと言えばいわゆる優秀な愚か者とでもいうべき人材が残りやすいと言えます。 優れた研究者が、その優秀なリソースを「愚か者であり続けること」に投じた方が生き残りやすいという状況は、独創的な研究成果を上げるという観点からは非常にもったいないことでしょう。 グローバルスタンダードから見れば、ひょっとしたら日本人は「優秀なのになぜ愚かなことをやめないのか」と言われてしまうかもしれません。 ただ、だからといって「日本はダメだ」と安易に決めつけてしまうのは、それこそ正義中毒的な思考パターンと同じでしょう。日本ではこのやり方が、生き残るためには適応的だったのであり、このやり方に則って行動した方が、生き延び、子孫を残すのに有利だったのです。 また、日本以外の土地でも状況によっては、日本のやり方の方が有利に働くケースだって考えられるのです。 では、なぜ日本が現在のような、社会性が高く、社会や組織の維持のためなら自分の考えを吞み込むことがよしとされる文化になったのかについて、考えてみましょう。