追悼。ガンと戦い続けた元中日、日ハムの大島康徳氏…「いつも全力の熱血漢。投げっぷりの悪い投手を“野手に失礼だ!”と叱った」
高代氏は、その年のオフに広島にトレードに出され、大島氏は、2年後に39歳と10か月で通算2000本安打をマークし44歳までプレーした。大島氏は、引退後、評論家生活をへて、2000年から上田利治監督の後を受けて日ハムの監督に就任した。 1年目はビッグバン打線を率いて、3位に食い込んだが、2年目は主力に故障が相次ぎ、最下位に沈んだ。そのオフに高代氏にヘッドコーチ就任の依頼がフロントサイドからあった。いわゆるフロント主導人事。高代氏は、「大島さんがOKしていなければ受けられない」と条件をつけたという。 「そのとき1、2軍がバラバラでね。大島さんは”なんとかチームをひとつにまとめたい。若手も育っている。力を貸してくれ”と言ってくれた」 年が明けると「一緒に優勝を目指そう」と書かれた年賀状が届いた。 春季キャンプは沖縄の名護。 高代氏は「ファミリーとしてチームを強くしたかったんだと思う」と言う。現地で恒例の地元の方々との激励会があった。中締めがあり、選手や首脳陣は退席するのが通例だが、大島監督が「主軸とコーチ陣はまだ残っておけ」と号令。ワイワイと酒を飲み続けて本音をぶつけあった。休日には「飲みにいくぞ! 高代、スーツに着替えろ!」と命じられ、名護の小さな繁華街に公式スーツ姿ででかけた。 「指揮官がだらしない恰好で飯でも食っていたら示しがつかない」 ダンディだった。 「いつも全力の熱血漢。投げっぷりの悪い投手をよく叱っていたことを思い出す。“調子が悪いときもあるだろう。それでもピシッとしろ。野手が守ってんだぞ。チームのみんなに失礼だ!”とハッパをかけるんです」 当時は、金村暁、関根裕之、岩本勉、下柳剛らの若手がローテーション投手だったという。 「野手では、小笠原道大、田中賢介、金子誠、實松一成らの若手を育てた。とにかく熱い人だった」 だからアウト、セーフの判定でしばしば審判に食ってかかり問題を起こした。退場劇もあった。2002年3月31日の福岡ドームでのダイエー戦で、打球の判定を巡って猛抗議し、それを暴力行為とされて退場。2試合の出場停止となり、高代氏が異例の代理監督を務めた。 結局、5位に終わり、大島氏は、この年に退任した。 「もう大島さんは、契約が切れる年ということもあって、辞めるつもりだった。”あとは高代、おまえがやれ”。そう声をかけてもらっていたんですが…」 ヒルマン監督が誕生すると同時に、高代氏も、そのオフに日ハムを去った。 大島氏が、次にユニホームを着たのは2006年のWBCだ。優勝した第1回大会で、王監督をヘッド格の打撃コーチとして支えた。正捕手として優勝メンバーの1人だった元千葉ロッテの里崎智也氏は、大島氏を「豪快で陽気で裏表のない人だった」という。 「あのときは、韓国やアメリカに負けるなどして劣勢だったけれど、大島さんがチームのモチベーションを下げないように誰よりも元気をだしてムードを作ってくれた。国際試合のコーチって、結局、日本の最高レベルの選手が集まっているので、細かい指導よりも、そういう気持ちの面でのバックアップが大事なんですよ。僕は調子が良かったので、ほとんど何も言われることはなかったんですが、結果が出なくて苦しんでいた福留孝介なんかは、色々とフォローしてもらっていたのかもしれません」