ギャグに著作権はある? 権利を主張する人が急増するいま、知らないと絶対に損をする「権利の考え方」
意思説と利益説
権利の発露は、意思能力を持つ個人の要求である。共和政ローマの頃から市民が裁判で行ったさまざまな要求(用益権、地役権など)のうち、一般に人が主張し行使するのが正当であると認められるものが権利の原型となった。だから、権利は単なる要求とは異なる。 単なる要求の中には個人的な我が儘と変わらず、したがって一般的にその正当性を認められないものが多々ある。「他人が吐いた息が混じった空気を吸いたくないから、私の周辺の人々はみな息を止めよ」と要求する者がいたとしても、そんな要求に正当性は認められない。そいつのために我々が息を止めて窒息死する義務なんてあるわけない。 そもそも権利とは、人が保有し、主張し行使することが正当であると公に見なされるものである。したがって、その主張されることを果たさねばならない義務を持つ具体的な他人が存在する必要がある。当然、「私にはイケメンに愛される権利がある!」と喚いても、そんなもん成り立つはずがない。 権利はまず、意思能力を持つ個人の主張であると共に、それに対応する他人の義務を伴うものである。そしてさらに、その他人の義務を権利者自らの意思によって履行させたり免除したりできる支配力でもある。このような権利の説明を「意思説」と呼ぶ。 たしかに権利は、人によって主張されねば始まらない。しかし、この考え方だけによってしまうと、意思能力を持って主張できない人々、たとえば新生児や重度精神障がい者、脳死状態の人などは権利を持たないということになってしまう(また日本では民法3条1の「私権の享有は、出生に始まる」にも矛盾する)。 そこで、権利とは本人の主張を待たずして、その者の「守られるべき利益」を法的に保護するものであるという議論が、19世紀頃の法実証主義から生じた。法律は人為的に作られる、したがって権利とは、法によって意図的に保護される利益であるというこの第2の権利説明を「利益説」と呼ぶ。 「利益説」に立つ方が権利を持つ人々の範囲を拡げることができるし、いかにしても個人から奪い取れない権利(不可譲権と呼ぶ。たとえば生命権、表現の自由など)を説明することができる。 新生児や脳死状態の人にも、その生命が守られることが利益であるから生存権があり、胎児は人ではないが、いずれ人へとなりゆく生命であるからそう簡単に中絶することはできないということになる。 さらに連載記事<女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。
住吉 雅美