中尊寺建立900年で脚光を浴びる「奥州藤原氏」: 100年の栄華と滅亡
平泉を拠点にインフラを整備し中尊寺を建立
清衡は1094(寛治8)年頃、朝廷から陸奥の押領使(おうりょうし)に叙任される。押領使は治安維持の全権を持つ、いわば「警察権」を持った役職だ。すると清衡は旧安倍氏系、旧清原氏系の小豪族を支配下に置き、かつ摂関家への貢納に励んだ。京都と巧みに「外交」しつつ、一方で奥州の勢力を結集させていく──その先には、中央政府と距離を置く「独立構想」が視野に入っていたと見ていい。 「黄金都市」平泉の建設も始まった。平泉は衣川と北上川の合流点にある要衝地であり、7平方キロメートルにわたる農地を開発したという。また、白河関(福島県)から外ヶ浜(青森県)に至る幹線道路・奥大道(おくのたいどう)も整備し、人と物の移動を活性化した。平泉は奥大道のほぼ中間点に位置している。 さらに中尊寺の建立である。中尊寺に清衡が奉納したと伝わる「落慶供養願文」には、戦乱で失われた多くの者の魂を浄土に導くために建てたと記されている。「中尊寺経」と呼ばれる写経も奉納するなど、東北の安寧を願っていたことがうかがえる。 商業を振興し、インフラを整備。さらに仏教によって民衆を統治する──平泉は当時の地方には他に類を見ない発達した都市であり、奥州藤原氏「独立構想」の本拠地でもあった。
毛越寺を建立した2代基衡
2代基衡の誕生年は諸説あるが、1105(長治2)年説が一般的だ。1128(大治3)年の父・清衡没後、兄との後継争いを制し、実権を握った。 基衡の特筆すべき事績は、毛越寺の建立である。京の都の文化を積極的に取り入れ、本堂は都の方角に向けられていた。周囲に、京風の碁盤の目状の街区を整備したとも伝わる。 一方、この時代、中央では摂関家の権力に陰りが見え始め、上皇・法皇による院政へと移行していた。こうしたことを背景に、基衡は摂関家に対して「低姿勢から高姿勢へて転じたのではないか」と、高橋崇は指摘する(『奥州藤原氏』/中公新書)。実際、関白・藤原頼長とは低姿勢で融和した後に衝突するなど、摂関家との関係に変化がみられる。 半面、基衡が建立した毛越寺の優雅な庭園には、彼の貴族志向が強く反映されている。 金色堂に納められた基衡の遺体から、彼が肥満した体型だったことが分かっている。武光誠はぜいたくな食生活に慣れ親しんだ基衡を、次第に貴族化した人物ではなかったかと述べている(『奥州藤原三代の栄華と没落』KAWADE夢新書)。 毛越寺の阿弥陀堂だった観自在王院は、基衡の死(1157・保元2年)の1年後、彼の妻が建立したものだ。今も残る舞鶴が池は平安時代に書かれた最古の庭園書『作庭記』に則って築いたといわれる。妻が夫の貴族志向を受け継いだのだろう。 基衡は京都の摂関家に「高姿勢」でありながら、文化・生活は貴族的という二面性を持っていた。