戦後、「日本人初のジャンボジェットの機長」になった、真珠湾攻撃にも参加した「元・零戦パイロット」
来年(2025)は「戦後80年」、そして「昭和100年」にあたる。太平洋戦争(大東亜戦争)の第一線で戦った将兵は概ね明治末期から昭和初年までに生まれた人たちだったが、約230万人が戦死、民間人を合わせると310万人もが犠牲になったとされている。そして、戦争を生き抜いたその世代の人たちは、価値観の一変した世の中に戸惑いながらも、さまざまな分野で戦後の日本復興の礎となった。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! ここでは、今年4月に上梓した私の新著『決定版 零戦 最後の証言1』(光人社NF文庫)より、真珠湾攻撃に参加した零戦パイロットで、戦後は日本人初のジャンボジェット(ボーイング747)の機長となった男のエピソードを紹介しよう。
波乱に満ちた生涯
「最近は人も訪ねてこないし、子供たちも日中は出かけていて、物音ひとつ聴こえないこの部屋に一人でいると、生きてるのか死んでるのかもわからなくなります」 東京・世田谷の閑静な住宅地の一角にある自宅応接間で、83歳の藤田怡與藏(ふじた いよぞう)は語り始めた。平成13(2001)年初夏のことである。この年は昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃から60周年にあたり、私は講談社の総合月刊誌「現代」の取材で藤田邸を訪ねていた。 私はそれまでにも藤田には何度か会い、取材を重ねていたが、記事にする機会のないまま数年が経過していた。藤田が癌をわずらい、長時間にわたるインタビューがむずかしかったことが、その大きな理由である。だが、聞けばこのところ病状は安定してきており、自宅でなら話ができるという。そこで、真珠湾60年の節目を機に、こんどこそ記事にまとめようと、私は藤田を訪ねたのだ。 「近頃はなんだか変な心境になっちゃってね、人間なんていうのは地球上に住んでるウジ虫みたいなもんだな、と。俺はウジ虫の一匹だな、死んだって生きたってどうってことはない。いつ死んでもいいや、そう思ってるんだけど、なかなか死にやがらない。案外、長生きしますかな。これはもう、神の思し召すままに、と考えるより他はないですね」 藤田怡與藏は、大正6(1917)年、中華民国の天津で生まれた。父・藤田語郎は医師で、日本租界のあった中華民国の天津で病院を営んでいた。 小学生の頃から飛行機に憧れ、天津の小学校を卒業したのちは、父の郷里である大分県の県立杵築中学校(現・杵築高校)に進学。陸上競技部に入部し、短距離選手として活躍した。 そして飛行機に乗りたい一心で中学5年の12月に海軍兵学校を受験、難関を突破して昭和10(1935)年4月、六十六期生として入校する。 海兵在校中の昭和12(1937)年7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、戦火はまたたくまに上海に飛び火し、支那事変(日中戦争)が始まった。そのため六十六期生の教育期間は半年短縮されることになり、昭和13(1938)年9月に卒業。この年、藤田の卒業を見届けることなく、父・語郎は脳溢血で急逝していた。