中尊寺建立900年で脚光を浴びる「奥州藤原氏」: 100年の栄華と滅亡
20代半ばで部下に裏切られて死んだ4代泰衡
秀衡死去のわずか2年後の1189(文治5)年8月21日、栄華を誇った平泉は炎上した。鎌倉幕府の侵攻を目前に控え、奥州藤原氏自らが火を放ったという。『吾妻鏡』は、その様子をこう記す。 「泰衡、平泉館を過ぎ、なお逃亡。わずかな郎従を館内につかわし(中略)高屋、宝蔵等に火をはなち、三代の旧跡を失う」 翌日、焼け野原となった平泉に鎌倉幕府軍が入城した。 『吾妻鏡』に名がある泰衡が、秀衡の跡を継いだ4代目である。 これにさかのぼる同年閏4月、泰衡は源義経を殺害した。再び『吾妻鏡』の記載。 「閏四月大三十日、藤原泰衡が源義経を襲った。朝廷の命令や頼朝の圧力に抗しきれなかった」 歴史に「タラレバ」はないが、仮にもっと早く義経を引き渡していれば、結果は違った可能性がある。だが、泰衡は決断できなかった。とはいえ、金色堂の遺骸の歯を調査したところ、死亡推定年齢はおよそ25歳(泰衡は生年が不明)。強大な鎌倉幕府に対抗するには、若すぎた。迷いもあったのだろう。 平泉を出た泰衡は必死に逃げたが、9月3日、贄柵(にえのさく / 秋田県大館市)で最期を迎えた。家臣の裏切りに遭い、首を取られる酷い死だった。 こうした生涯をたどった泰衡に、特筆すべき事績はない。ただし、裏切って首をとった家臣がいた半面、主だった重臣たちは主君が死ぬまで戦い続けた。降伏は泰衡死後である。泰衡は慕われていたのかもしれない。確証はないが、その可能性があるのが救いだろう。
〔参考文献〕
・『奥州藤原氏』高橋崇 / 中公新書 ・『奥州藤原三代の栄華と没落』武光誠 / KAWADE夢新書
【Profile】
小林 明 1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。