中尊寺建立900年で脚光を浴びる「奥州藤原氏」: 100年の栄華と滅亡
秀衡を悩ませた「義経問題」
基衡が逝くと、3代秀衡が平泉を治めた。秀衡は源義経との関係で知られる。 義経という人物は1180(治承4)年、打倒平家に挙兵した兄・頼朝に馳せ参じるまでの経歴が、詳しく分かっていない。だが、1174(承安4)年頃に元服し、その後奥州に向かって秀衡に庇護されたと伝わる。源平合戦で活躍後、頼朝と対立し、再び平泉に姿を現したのを確認できたのは1187(文治3)年だった。 通説では秀衡は義経を厚遇したとされるが、裏付ける証拠はない。秀衡も父・基衡と同じく貴族志向が強かったらしく、京都から文官(行政官吏)を招いていたが、武光誠は文官の下位に義経を位置けていたとみている。つまり、義経は貴族志向の強い秀衡が、中央の行政システムや文化を導入するために招聘した、京都に明るい人物のひとりに過ぎなかった可能性もある。 また高橋崇も、秀衡は自分が死んだのちに「義経を大将軍として国務の任にあたらせよ」と、息子たちに遺言したとされる件を引き合いに、これらはあくまで鎌倉幕府の公文書『吾妻鏡』や、僧侶の日記『玉葉』が伝聞をもとに記したにすぎず、秀衡の真意だったかは疑問と指摘する。 仮にこの遺言が事実だったにせよ、平泉が攻撃されたときは義経を軍事指揮官に立て迎撃せよとの意味であり、国務を任せるほど重用していなかったともいう。
鎌倉幕府との戦いを案じながら死去
秀衡は平清盛・源頼朝と互角に渡り合った男でもある。 清盛とは協調関係にあった。貿易による利潤追求に積極的だった清盛にとって、奥州の特産品を押さえている秀衡は「ビジネスパートナー」として欠くべからざる存在だったからだ。このため秀衡を朝廷に推挙し、官位をそれまでの六位から従五位に昇進させるのに尽力した。1170(嘉応2)年、陸奥の軍・政府の長官である鎮守府将軍に秀衡が就くように、働きかけたのも清盛だった。 一方の頼朝にとっては、「目の上のたんこぶ」だった。打倒平家に挙兵したものの、西の平家と北の奥州藤原氏が連動して軍事行動を起こせば、鎌倉は挟撃されかねない。清盛が病死する1181(治承5)年前後には、秀衡が白河関を越えて鎌倉に迫っているとの噂が流れた。フェイク情報だったが、頼朝はつねに秀衡を警戒していた。 だが清盛が没し、義経の活躍で平家が滅亡すると、頼朝は京都への朝貢を「直接行わずに鎌倉を通せ」と秀衡に指示するなど、いよいよ強気に出始めた。秀衡はこれをのんだ。奥州に潜伏している義経を引き渡せと迫ると「異心なし」、つまり頼朝に楯突くつもりはないと回答した。 秀衡と清盛は、いわばウィンウィンの関係にあり、お互いを利用しあっていたが、頼朝は不信感と敵意を隠そうとしなかった。源氏と平家のあいだを巧みに泳ぎ奥州に干渉させなかった秀衡も、平家が滅亡すると、次第に頼朝に追い込まれていった。 文化面では京都・平等院を模した無量光院を建立し、貴族志向を極めた。浄土思想を具現化した無量光院の規模は平等院の上を行っていたと考えられ、京都を凌駕したいとの願望がうかがえる。 一方で、政庁を祖父・清衡の館があった地に移転した。これが柳之御所である。武光誠はこの移転を、奥州の武士の独立性を回復させる策だったという。貴族化を進めながらも、来るべき鎌倉との合戦も見据えていたのだろう。だが、1187(文治3)年、多くの課題を残したまま没する。