東京国立博物館『内藤礼 生まれておいで 生きておいで』レポ。縄文の土製品から、生と死に思いをはせる
生まれておいで、生きておいで
第三会場となる本館1階ラウンジには、重ねたガラス瓶の上に水を満たした『母型』が展示されている。この作品は、生の内と外の往還を表したものだという。 歴史資料などを収蔵する博物館を遠い時代のものと感じ、現代の自分たちとは縁遠い存在に感じている人は少なくないのかもしれない。しかし鬼頭は、博物館の収蔵品を「かつて生きた人の証」としたうえで、「本展を通じて、この地上で生きた人――かつて生きた人たちと、現代を生きる私たちとの間に通じる精神世界や、想像の力を感じてほしい」とした。 「死は、かつての生」と語った内藤。その「かつての生」を、いま生きているものと同じように実感することはできるだろうか、という問いを、自分自身に向けたいとした。そのうえで、ただ1人の自分の「生」を感じ、また「私ではない他の生があるという安堵と幸福を感じることができたら」と話した。
展示を見て感じた、いま「生の内」にいること
数年前、内藤と建築家・西沢立衛による「豊島美術館」(香川県)を訪れたことがある。同館には、今回展示されている『母型』と同じ作品タイトルである『母型』(2010年)が展示されている。それは、美術館のいたるところから湧き出す水、つまり「泉」であった。冷たいコンクリートに身を横たえ、泉が湧き出し、水が流れていくのをただただ見た。光が揺れる静謐な空間のなかで、「母型」という名前を付けた意味について考えた時間を鮮明に覚えている。今回展示されている『母型』を見て、数年前の記憶といまがつながったように感じた。 今回、(仕事としては良くないことだが)この展覧会を文字に起こすことをためらい、掲載までにずいぶん時間がかかってしまった。内藤の作品を包む自然光、人の動く空気に応じて揺れる風船と毛糸玉。チカチカと輝くガラスビーズ。千年以上の時を超えて、ガラスケースに収まる土製品。そして企画展会場に向かう際に見る常設展示は、かつて生きた人々の証なのだとあらためて感じた。生と死の往還、そしていまは「生のうち」にいる私―― 。個のちっぽけさと壮大さに、思いをはせた。会期中にもう一度、足を運んでみようと思う。
テキスト by 今川彩香