アフガン女性に無料で日本語教室を開く江藤セデカさん 命懸けの来日と日本人夫との短くも幸福な結婚生活
「アフガニスタンでも料理は女性がするものでした。でも私は一切したことがなく、いつも焦がしてばかりでした」 初めて作るみそ汁にワカメを長いまま切らずに入れてしまっても、克之さんは目を細めて労わってくれる。 「ご近所で料理のやり方を聞いて回っていると、『セデカ、苦労して料理することはないよ』と。『手が荒れるから、お皿を洗ってはダメ』と言って、主人が皿洗いをしてくれたのです」 ’84年10月に長女を出産。専業主婦として家事と育児をし、日本語学校にも通った。しかし、そんな幸せな時間は無情にも急に断ち切られた。 「長女が生後5カ月のとき、彼は白血病と診断されていたのです。でも私には一切教えてくれず『貧血気味なんだ』と。私を心配させたくなかったのでしょう」 貧血対策にレバーや干しブドウなどを食材にしたが、病魔は着々と克之さんをむしばんでいく。 「亡くなる半年前、ハワイに旅行しました。私たちは結婚式を挙げていませんでしたので、“せめて写真だけでも”と、私は純白のウェディングドレス、彼はタキシードを着て撮影しました。 彼は手も足も、ものすごく痛かったはずです。旅行中、苦しそうな顔を頻繁に見せていたのを覚えています」 帰国後は即入院。「セデカ、ごめん」と謝る夫に「大丈夫、必ず元気になるから」と励まし続けた。 あるときには「僕が死んだら、どうする?」と問われ、こんなジョークで返してもいた。 「私、パーティやる。好きなものを好きなだけ食べる!」 微笑んでくれた克之さんだが、やがて寂しげな顔に戻って、こう言った。 「どうか再婚しないでほしい……。相手が日本人でも、アフガニスタン人でも……」 亡くなる1週間ほど前、4歳の娘にペンで書いたメッセージが、克之さんの最後の言葉になった。 《おかあさんを、こまらせないで。あいしてる》 ’89年6月28日、夫・克之さんは33歳の短い生涯を閉じた。 (取材・文/鈴木利宗) 【後編】アフガン女性に日本語教室を開く江藤セデカさん 日本語で照らし続ける母国追われた同胞女性たちの未来へ続く
「女性自身」2024年11月26日号