アフガン女性に無料で日本語教室を開く江藤セデカさん 命懸けの来日と日本人夫との短くも幸福な結婚生活
「新聞、読めるんですか?」大学の授業の合間、わずか15分に訪れた出会い
江藤セデカさんは’58年1月22日、中東はアフガニスタンの首都・カブールで生まれた。 「王家の末裔である父は町の農場を管理していました。母は地方の村長の娘で、13歳で父と結婚。11人子供を産んで、9人育ったうちの7番目が私でした」 実家はレンガ造りの3階建ての豪邸で、敷地内に果樹園もあった。 「1年の寒暖差が激しいカブールは、真夏は気温が45度を超え、逆に真冬はマイナス25度に下がり豪雪になります。家には薪や石炭を貯蔵する地下室がありました」 曽祖父はアフガニスタンの防衛長官を務めた人で、叔父は王の秘書として仕えていた。近くには大統領宮殿があり、生活空間の安全は保たれていた。 「けれども女子は外出できませんでした。外出すれば誘拐されて身代金を要求されたり、レイプされたりする危険があったのです」 短いスカートは禁止、見知らぬ男性との会話や食事も禁止。女子だけでは、モスク(イスラム教の礼拝堂)にも行けなかった。そんな慣習のなかで両親は「進歩的な考え」を持っていたという。 「貧しい人にも丁寧に接する父は、『世の中に悪い人はいない』と話してくれました。そして娘たちにも勉強させてくれたのです」 アフガニスタンでは、児童が小学校を卒業する割合は54%だが、女子だと40%しかいない。15歳以上の識字率は43%、女性では30%だという(前田耕作・山内和也編著『アフガニスタンを知るための70章』明石書店より)。 そんななかセデカさんは倍率85倍の国立カブール大学地理学部に合格。ようやく単独行動を許されようになったが、相変わらず制限はあった。 「表を歩くときは下を向いて歩くこと。外で男性に声をかけられたら大声を出すこと。外出先で誰と話したか、何時に帰るか、といった親への報告は義務でした」 束縛が強すぎるようにも思えるが、それなりの理由も。 「アフガニスタンの習慣で、結婚するまで女性は処女でなければいけません。もしどこかの男に乱暴されたら、嫌でもその男と結婚するか、一家で別の土地に移住などしなければなりません。 男子と手をつないだだけで退学になったり、家族から虐待されたりします。男子と映画を観に行っただけで、家族に暴力をふるわれた女子もいました」 自由恋愛は許されず、親が決めた結婚を苦に自殺する女子もいた。そんな窮屈な学生時代に、セデカさんは人生を変える男性と出会う。 「私の教室の真向かいに、外国人のパシュトー語(アフガニスタンの公用語)の教室があり、そこでアジア系の青年がアフガニスタンの新聞を読んでいたのです」 思わずセデカさんが「新聞、読めるんですか?」と尋ねると、その男子留学生は「読めますよ。日本で勉強したんです」と嬉しそうに答えた。それがのちの夫となる江藤克之さんだった。 当時セデカさんは19歳、克之さんは22歳。大学の休憩時間、わずか15分での出会いである。 しかし結婚前に男女が1対1で会うことは御法度。男女2対2で話すなどして二人の仲は深まっていった。