アフガン女性に無料で日本語教室を開く江藤セデカさん 命懸けの来日と日本人夫との短くも幸福な結婚生活
命懸けの来日、異国の結婚生活、娘の出産。だが病魔は刻一刻と迫っており――
アフガニスタンは共和制が’73年にスタートしたばかりだったが、政情が不安定で、’78年にクーデターが勃発すると人民民主党政権が成立した。 「この新体制に反政府運動が起きて国内の治安は最悪でした。反政府的なことを言っただけで、逮捕されるか殺されてしまうのです。無論、外国人の彼は帰国を余儀なくされました」 「最後に会えませんか?」と願う克之さんに、友人に同伴してもらって会いに行った。その友人に5mほど離れて耳を塞ぐように頼んだ後、克之さんはセデカさんを見つめて言った。 「あなたが好きだ。日本に来て、僕と結婚してくれませんか」 彼に惹かれる気持ちはあった。だが結婚前の恋愛は許されておらず、最悪の場合、女性は殺されかねないのだ。 「ごめんなさい、外国人との結婚なんて許されるわけないの」 しかし克之さんの思いは帰国後、彼が石油会社に就職しても依然として変わらない。日本から手紙が何十通と送られてくる。 《いつもあなたのことを心配しています。日本に来てくれませんか》 文通は2年にも及んだ。セデカさんが国家公務員として通産省に就職すると、手紙は勤務先にも送られてきた。理解者である姉にだけ打ち明けると――。 「アフガニスタンの男はお金があれば2人目の奥さんを持つでしょう。それに比べて、克之さんほど一途な男性はいない。私は結婚すればいいと思う」 だが両親に言えるわけがない。周囲に漏れれば、身内ごと命の危険にさらされる恐れもあった。 半年後、「鼻炎の治療」という名目で、セデカさんは知人がいるインドに渡航する。克之さんとそこで落ち合う算段を立てたのだ。 「アフガニスタンでは克之さんと結婚できない。手紙でお互いの所在を確認しながらインドで合流し日本へという計画です。二度と戻らない、命懸けの覚悟でした」 ところがインドに着いて2週間が過ぎても、彼から1度も手紙が届かない。滞在期間を引き延ばすうちに3カ月、4カ月と経ってしまった。 「命がけでお嫁さんになろうと来たのに『なぜ?』と。ついには父から『戻ってこい』と連絡が来てしまったのです」 泣く泣く帰国する寸前、克之さんから国際電話が。 「セデカ、なぜ手紙をくれなかった? すごく心配していたんだ」 あとでわかったことだが、結婚に猛反対だった克之さんの母親が、セデカさんからの手紙をすべて破り捨てていたのだった。 バンコク、マニラと経由して、克之さんが待つ成田空港へ。 「到着ロビーに着くと、花束をもって待ってくれている彼が。夢にまで見たやさしい笑顔でした」 ’83年3月24日、婚姻届を提出。 「結婚まで彼は私の純潔を守ってくれました。『家族を捨ててまで日本に来てくれた。君の涙は僕の涙。親より君が大事だ』と」 あどけない新婚生活が始まった。 「『かつゆき』は発音しにくいので『かつおさん』と呼んでいました。主人は『それ、魚の名前なんだけどね』と笑っていました」 日本での生活は母国とはまるで違った。夜中に暴走族が乗り回すバイクのエンジン音を聞いたときは「戦闘が始まった!」と反射的に飛び起きたことも。 「アフガニスタンで夜に爆音が鳴るのは政府とムジャヒディン(聖戦士)との戦闘でしたから」 成績優秀だが、お嬢さま育ち。家事・炊事はからっきしだった。