日本被団協元代表委員坪井直さん死去から3年 「みなさんの中で生き続けて」 後輩の元教員松井さんが活動
ノーベル平和賞受賞が決まった日本被団協の代表委員や広島県被団協の理事長を務めた坪井直(すなお)さんが、96歳で亡くなって24日で3年となった。核兵器廃絶へのバトンを受け継いだ一人が教員時代の後輩、松井久治さん(70)=広島市南区。平和記念公園(中区)でガイドを務め、「坪井先生をみんなの中で生かし続ける」と、その被爆体験と平和への思いを子どもたちに広めている。 【写真】坪井直さん 松井さんは20日、群馬県の高校生17人を案内した。原爆慰霊碑や原爆ドームを巡りつつ、坪井さんを紹介。被爆してほぼ全身にやけどを負って御幸橋西詰め(現中区)付近に逃れ、小石で地面に「坪井はここに死す」と書いたという話を伝え、「世界から核兵器をなくさないといけないと言い続けた」と振り返った。 松井さんは元数学教員。1976年に初任校の翠町中(現南区)で、当時教頭の坪井さんと出会った。平和教育が盛んな広島で、生徒に被爆体験を語り「ピカドン先生」とも呼ばれた坪井さん。片や被爆2世の自身に何ができるか分からなかった。 夜遅くまで残業していたある日、数学担当ゆえに「平和教育に自信がありません」と打ち明けた。坪井さんは「わしも数学だ。原爆のことだけでなく命の大切さを訴えていけば良い」と励ましてくれたという。 被爆死した前身の第三国民学校の生徒や教員の死亡日時、場所をたどる活動にも坪井さんと共に力を入れた。生徒たちと遺族を訪ね、1980年に冊子「空白の学籍簿」として発行。今でも平和学習の副読本として使われている。 坪井さんは御幸橋西詰め付近に避難後、意識を失い、似島(現南区)に運ばれたが、偶然母親と再会できた。坪井さんが「空白」を埋めようとした背景を、松井さんは「自らも誰にも知られずに亡くなり、空白になっていた可能性があったからでは」と推し量る。 ノーベル平和賞で改めて足跡に光が当たる坪井さん。松井さんは「受賞で核兵器がなくなるわけではない。生きている限り坪井先生を語り続ける」と決意する。先輩がモットーとした「ネバーギブアップ」の精神を胸に、次の世代へ思いをつないでいく。
中国新聞社