コロナ禍の危機を救った「生麩のみたらし」 明治創業の老舗が生んだヒットの陰に社員の行動力
名古屋市の麩柳(ふりゅう)商店は明治期からの伝統を誇る麩の製造・販売会社です。4代目社長の三輪健一さん(70)は、色鮮やかで煮崩れしにくい「那古野麩」(なごやふ)を開発しました。創業家以外から初の後継者候補となった5代目で専務の新井智久さん(46)は、職人の感覚で行っていた生産管理を数値化し、労働時間の削減を行うなどして健康経営優良法人の認定につなげました。コロナ禍で売り上げが8割落ち込んだ時も、仲間と「生麩みたらし」をはじめとする一般消費者向け商品を開発し、コロナ禍前を超える業績を記録しました。 「技は見て盗め」ではない人材育成のコツ 中小企業の事例集【写真特集】
色鮮やかな生麩を武器に
麩は小麦粉を水で練るとできるグルテンを主原料とした加工食品で、田楽やお吸い物などに使われます。江戸末期に庶民に広がり、明治初期に麩の製造業者が増えたといいます。麩柳商店もその一つで、初代・三輪柳助さんが1877(明治10)年に創業しました。3代目の三輪誠一郎さんが1960年代前半、本格的に生麩を製造し、問屋に出荷しはじめました。 4代目で現社長の三輪健一さんは、生麩に美しい色彩やグラデーションを入れる技術を開発し、売り上げを伸ばしました。しかし、他社も同様の技術を身につけ、徐々に新規顧客の獲得が難しくなります。 麩柳商店がある「那古野」(なごの)という地域は、かつて「なごや」と呼ばれ、織田信長ゆかりの地として知られています。一方、生麩は弱火でコトコト煮る京料理に合わせて発展し、そのままではグツグツ煮込む名古屋料理には合いません。麩柳商店は30年以上前、煮込んでも荷崩れしない生麩を開発し、後に「那古野麩」(なごやふ)と名づけました。 「色鮮やかで煮崩れしにくい」という強みを説明すると、また少しずつ料亭や仕出屋などの顧客を獲得できるようになりました。
創業家外から後継者に
現専務で5代目の新井さんは就職氷河期世代です。20年以上前、麩柳商店にアルバイトで入り、その3年後に社員になりました。ものづくりが好きで、クラフト系の専門学校で学んだ新井さんは「小麦粉を練り上げて麩の形を作る工程が、陶芸に似ていて魅了されました」。 麩柳商店は現社長の三輪健一さんまで、創業家が経営を担いました。しかし、三輪さんの長男は事業を継がず就職したため、後継者として新井さんに白羽の矢が立ちます。新井さんは「那古野麩の技術は後世に残すべきだ」と考えて引き受けました。 従業員数は13人(うち社員7人)。ほかに同世代の職人もいる中で後継者に選ばれたのは、「物事を俯瞰して見られる視点」を買われたのではないか、と新井さんは考えています。 新井さんが入社したころ、生麩づくりの技術伝承はすべて職人の感覚だったといいます。麩づくりはその日の温度や湿度で、餅粉に含まれる水分や麩の重さまで変わる繊細な世界です。指でつまんで「これくらい」と教えられても、毎日加減が異なるため、習得には膨大な時間がかかります。 新井さんは「これでは若手が育たない」と、スケール(はかり)を導入。品質やグルテンの管理を徹底的に数値化しました。麩の1日の生産量は約2千本に及びます。社長の三輪さんは早朝から夜遅くまですべての作業を一人で担ってきましたが、現在は社員3~4人で管理しています。