特攻100人見送る日々、104歳元整備兵が悲劇伝える…初出撃から80年
太平洋戦争では日本軍の「特別攻撃(特攻)」で多くの若者が命を散らせた。当時を知る人が少なくなる中、整備兵として1944年10月の初出撃に立ち会ったクレーン大手「タダノ」元会長の多田野弘さん(104)(高松市)は、80年前の悲劇を伝える活動にも力を入れてきた。「死ぬことが当たり前の戦争を、今の若者に経験させてはいけない」。戦争への憤りを胸に刻む。(高松総局 足立壮) 【写真】特攻隊員への思いを語る多田野さん。「死を無駄にしない」と誓う(高松市で)
ボルト1本まで
多田野さんは高松市出身。大阪市の学校で機械技術を学び、卒業後は高松市で発動機を作る工場で勤務した。39年10月、航空整備科予備練習生として横須賀航空隊に入隊。42年に整備兵としてマーシャル諸島に赴いた後、ラバウルやサイパンなど南方の島々を転々とし、航空機の整備に従事した。 日本軍は42年6月のミッドウェー海戦で大敗し、南洋の拠点を次々と失い、戦況が悪化した。フィリピン奪還を狙う連合国軍との戦闘が迫る中、追い詰められた海軍の首脳が選択したのが特攻だった。
44年10月、フィリピンのマニラ郊外にあるマバラカット基地で、最初の「神風特別攻撃隊」が編成された。周囲から作戦を聞いた多田野さんは「戦況を反転させるためには特攻しかないだろう」と前向きに受け止めた。「命を懸けて戦う隊員の命を預かっている。ボルト1本まで気を使って作業した」
作戦成功願い
多田野さんによると、整備兵と特攻隊員が直接会話する機会は少なく、居住場所も違っていた。「特別な存在だった」という。 隊員たちは別れの杯を交わし、44年10月21日の初出撃で5機に乗り込んだ。多田野さんらは滑走路近くに並び、作戦の成功を祈って、飛び立つ機体に手や帽子を振り続けた。 「動揺した表情を一切見せず、淡々とした隊員の様子に驚き、その情景が頭に残っている」。対象が見つからず一度基地に戻ったが、4日後の出撃で零戦5機はレイテ沖を航行する米空母などに突っ込み、撃沈した。
45年1月まで同基地で、自分と同世代の若者らが100人以上出撃していく姿を見送った。「人が死ぬことが日常になり、特別でなくなった。自分が生きているのが不思議に思えた」。その後、宮崎県内の基地で終戦を迎えた。