特攻100人見送る日々、104歳元整備兵が悲劇伝える…初出撃から80年
「社会の役に」
高松市に戻り、48年、父親とともに多田野鉄工所(現・タダノ)を作った。「彼らのおかげで生かされた。社会の役に立ちたい」との思いだった。55年に日本で初めて油圧式トラッククレーンの開発に成功。建設用クレーン製造の最大手へと成長させ、東証プライム上場企業の礎を築いた。 特攻の歴史を伝える活動も続けてきた。75年にマバラカットで行われた慰霊祭に初めて参加し、「残された私たちは、あなた方の死を無駄にしない」とあいさつ。2008、09年にも出席した。
21年以降は特攻隊戦没者慰霊顕彰会(東京)の会報に自身の体験をつづり、「生かされた命を、世のため人のために役立てる」と思いを伝えてきた。 特攻開始から80年を迎えた10月25日は自宅で隊員たちを悼んだ。多田野さんは「戦争すること自体が間違っていた。対話ではなく、力で認めさせようとしてはいけない」と力を込めた。
◆特別攻撃= 太平洋戦争の末期、爆弾を積んだ航空機などで、隊員ごと相手に体当たりした攻撃。1944年10月に海軍が空母を撃沈するなどの戦果を上げ、陸軍でも始まった。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、6000人以上が命を落としたとされ、その多くが20歳前後の若者だった。日本軍は特攻専用機「桜花」や人間魚雷「回天」などの特攻兵器を開発した。