日本初公開のドローイングも登場! アートを開放したキース・ヘリングの軌跡を辿る大回顧展が開催。
1980年キース・ヘリングは、マンハッタンだけで毎日の通勤客が200万人ともいわれたニューヨーク地下鉄駅構内の、空いた広告板のスペースに貼られた黒い紙にチョークで、警官に見つかる前にドローイングが完成するように素早く描いていく「サブウェイ・ドローイング」のアクトを開始。ここにはキースの後年に続くアイコニックなキャラクターと幾つかのテーマが既に現れており、1986年頃まで続けられたその数はなんと5,000枚以上に及んだという。
これは面白半分の行為ではなく、遺される絵と同様に、都市のスペースに介入しその現場で美術を創作する過程自体を重要視した真摯な芸術行動なのだが、巨大な建築物を梱包する作品で知られるクリスト&ジャンヌ=クロードをはじめとした現代美術のコンセプチュアルな面に、キャリアの初めからキースが影響を受けていたことはもっと知られるべきだ。
第2章『Life and Labyrinth :生と迷路』、そして第3章『Pop Art and Culture:ポップアートとカルチャー 』のセクションへと移動する観客は、キースのキャリアにおける最初のピーク時のモチーフである「ラディアント・ベイビー(輝ける赤ん坊)」「ドッグ/吠える犬」「三つ目の怪物/笑う顔」などから、彼の創造した各キャラクターがシグニチャーである黒い縁取りと原色を使った画面の上に、これぞとばかりに活躍するのを存分に楽しめる。
Tシャツやグッズを通して私たちの暮らしにすっかりお馴染みとなったこれらのキャラクターとの、本展の落ち着いた展示空間での出会い直しは、彼らが担うメッセージの重奏的な面を私たちに指し示すだろう。なぜ犬は吠えるのか。なぜ悪魔が空を翔ぶのか、なぜ怪物が笑うのか。そして、なぜキャラクターは太い黒の線によって描かれた背景=世界と時空に埋め込まれたり、もしくは見分けがつかなくなって見えるのか。
彼が影響を受けたアーティストの1人、フランスのジャン・デュビュッフェの正統な美術教育を受けていない画風は、整理されていない生々しい人間らしさを発している。一方、キースは美術教育を受けながら学んだ記号論を流用して、彼の生きていた政治/性的騒乱に満ちた1960年代から1980年代のレーガン政権へと続くアメリカ合衆国の表層的な明るさやポップな外観に、生きるということの混沌やアイデンティティの苦渋を定着させることに成功したといえる。吠える犬や笑う怪物、また背景に溶け込んでいく対象物は、その混沌や苦渋を表現したものだ。 彼の作品は一見するとポップで明るく感じられるが、純粋な無邪気さとは明確に異なる。例えばキースはゲイであることを事実上カミングアウトしていた。以前からLGBTQの権利獲得のための運動があっても、同性愛をタブー視する価値観はあったのだろう。そうした事情は作品の持つ明るさとシリアスなテーマとのコントラストにも反映されていると思える。